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ローマ 2章1〜11節 2013年8月31日 |
だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。(1) 二章ではパウロは、今度はユダヤ人の罪について論じます。ユダヤ人たちは、神に選ばれ律法を与えられた自分たちは特別な民だと誇り、異邦人たちや、律法に対して熱心でないと見える人々を裁いていました。けれどもパウロが指摘したのは人の罪を指摘し、裁いているユダヤ人たち自身が、実は同じように神の前に罪を犯し、神の裁きの下に置かれているということでした。神に選ばれたユダヤ人であり、神との契約の下に置かれている民であっても、また神の慈愛と忍耐と寛容とにすがって悔い改めるべきでした。神の御思いを無視して悔い改めないということ自身が大きな罪なのです。
ですから、ユダヤ人であるかギリシャ人であるかということは大きな問題ではありません。そこで差が生まれて来るわけではありません。ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、大切なのは、悪を行うのではなく、耐え忍んで善を行うということなのです。
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ローマ 2章12〜16節 2013年9月1日 |
そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。(16) ユダヤ人たちは自分たちが神によって選ばれ、尊い律法を与えられているということを誇っていました。異邦人を見下げていました。裁いていました。しかし大事なことは律法を与えられ、律法を知っているかどうかということではありません。大事なことは、神の御心を示している律法がその心にしっかりと刻み込まれ、その律法を行っているかどうか、そこに生きているかどうかということなのです。
ですから律法を知っていても、行っていなかったら、律法を知らないのと同じだし、また律法を知らない異邦人であっても、自然のままで、律法の命じるところを行っていたら、そのことを神は喜んでくださるのです。
すべてのことが明らかになる時が来ます。キリストが再び来られる再臨の時に、隠されているすべてのことが光の下に置かれます。その時に、自分たちは律法を与えられているからと、ユダヤ人たちは神の御前に立つことができるでしょうか。ユダヤ人たちもまたキリストによる救いを必要としているのです。
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ローマ 2章17〜29節 2013年9月2日 |
・・・かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。 (28〜29) ユダヤ人は律法を与えられ、神が何を喜ばれ、何を嫌われるのかを知っていました。しかし、それを知っていながら、そのように生きていないとしたら、ユダヤ人たちの罪は非常に大きい、と言えます。神の御旨を知り、それを人々に教えることができたとしても、自分は律法に違反しているとしたら、それは神を侮っていることになり、かえって神の御名が汚されることになってしまうからです。
ユダヤ人たちが律法とのつながりの中で大切にしていたのは割礼でした。けれども、たとい割礼を受けていたとしても、律法を守っていなかったら、それは割礼を受けているとは言えません。大事なのは心に割礼が施されて神のものとして生きるということだったのです。
表面的にどう見えるか、どうあるかということが問題なのではありません。神は心を問題とされます。そして、そこでは、人は自分で自分を誇ることはできません。神の前に心に割礼を受け、喜ばれる心を持つことは、私たちが自分の力で達成し、自分で誇ることができるようなことではなく、神に栄えを帰すべき、神の業なのです
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