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Tコリント 12章1〜3節     2013年12月8日

神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。(3) 

 十二〜十四章は霊の賜物について扱っています。コリント教会に霊の賜物についての混乱があり、自分が与えられている賜物を誇ったり、この賜物が一番だ、とそれを絶対化して、他者を裁いたり見下す人たちがいたようです。
 しかし、このところでまずパウロは、教会にいるひとりひとりに霊の賜物が与えられていることを、「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』と言うことができない」と書いて、それぞれが異なった賜物を持っていても、イエスを主と告白する兄弟姉妹であり、同じ御霊によって生かされているお互いであることを確認するのです。
 パウロがこの手紙を書いている時代、ローマ皇帝は自分のことを「主」と呼ばせ、また自分の像を安置した神殿を造って、自分を神のように礼拝させました。そのような時代の中で、皇帝ではなく、イエスが主だ、と告白することは、まさに命がけだったことでしょう。知って下さい。今も、同じように主を告白する者たちが教会には集まっているのです。

Tコリント 12章4〜11節     2013年12月9日

働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。(6〜7)  

 私たちそれぞれには、いろいろな賜物が与えられています。そしてある人と、別の人とに与えられている賜物は違うのです。いろいろな賜物があります。知恵の言葉、知識の言葉、信仰、いやしの賜物、力ある業、預言(説教)、霊を見分ける力、異言、異言を解く力・・・ひとりの人が全部を与えられているというのではなく、ひとりひとりに与えられている賜物は違うのです。御霊はそれを思いのままに与えられます。形は違っても、その賜物の出所はひとりの御霊です。それぞれの賜物はまさに御霊の現れなのです。
 務めはそれぞれ違うでしょう。しかし、私たちはみな同じ御霊に賜物を与えられて、同じ御霊の働きの中に生かされています。ですから、私たちは自分が与えられている賜物を誇ることはできませんし、また人に与えられている賜物をまるでつまらないものでもあるかのように見下してはなりません。その人に特別な賜物を与え、生かしておられるのも同じ主だからです。 

Tコリント 12章12〜31節     2013年12月10日

もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。(26〜27)

 私たちはみな違った賜物をいただいていますし、人種も国語も性格も社会的な立場もみな異なっているかもしれません。しかし同じ御霊によって洗礼の恵みにあずかり、みな共に主イエスにつながる者とされました。それぞれが託されている働きは違いますから、誰かと同じでないからといって落ち込む必要はありませんし、また自分に与えられているものを誇って他者を見下げてもなりません。違っていてよいのです。みんなが同じであったらかえって困ります。必要でない人はひとりもいません。みんながとても大切なのです。
 私たちはお互いのもっている違いを受け入れつつ、互いにいたわり合うのです。共に悩み、共に喜びます。それはキリストにつながることによって、私たちお互いもまたいのちのつながりをもって生きる関係の中へと入れられているからです。キリストにつながり、キリストとの関係を大切にする人は当然、兄弟姉妹とのつながりをも大切にするのです。


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