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Tコリント 13章1〜3節     2013年12月11日

わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。(2) 

 わたしたちそれぞれは神から賜物を与えられています。そしてそれはすばらしいことです。与えられた賜物を隠したり、埋めてしまわないようにしましょう。与えられた賜物をお互いのために活用することです。しかし、同時に、私たちが忘れてはならないことがあります。それは私たちがどんなにすばらしい賜物を与えられていて、どんなに多くの人たちに感銘を与え、どれだけ多くの貢献を教会の中で、また社会の中でしていたとしても、もし、そこに愛がなければ何にもならないということです。どんなにすばらしい説教をし、すばらしい祈りをささげ、知識に満ちて、また力強い信仰者であったとしても、またどれほど多額の献金をし、また信仰を貫くために殉教したとしても、「愛」がないということがあり得るのです。神を愛する愛が、また人を愛する愛がなかったら、他のことがすべて完璧であったとしても全部が無益になってしまいます。愛することのできる者としていただきたいと思います。

Tコリント 13章4〜7節     2013年12月12日

愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。(4〜5)

 これがなければ全部が無益・無駄、かえってない方が良くなってしまうと言われているこの私たちの信仰の歩みの絶対条件である「愛」とは何なのでしょうか。
 今日の聖書の箇所では「愛」とは何なのか、まるで光をプリズムを使って七色に分けるように、いろいろな言い方で言い換えています。愛とは単なる感情やいい雰囲気ではありません。単に深い関心をもっているとか好きだということでもありません。愛は私たちの日常生活の中でとても具体的な形で現れてくるものなのです。
 愛には消極面と積極面があります。消極面は「・・・しない」と書かれている部分です。愛は高ぶったり、誇ったりしません。愛は不義とは相容れません。愛は自己中心ではありません。愛はいらだったり人を恨んだりしません。でも同時に愛には積極面があります。愛は人にやさしく、人を赦し受け入れます。愛は真理を喜びます。愛は忍び、耐え、信じて待つことができます。そのような愛を私たちも与えていただきたいと思います。 

Tコリント 13章8〜13節     2013年12月13日

わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。・・・その時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。(12)

 私たちにはいろいろな種類の賜物が与えられています。しかし、その多くは今の時のために与えられているものであり、完全なものが来ると、預言・異言・知識といった賜物は不要となり、すたれていきます。
 今は私たちは神についてもある意味、ぼんやりとしてしか分かっていません。私たちは神を知りたくても私たちの知識はとても大きな限界を抱えています。もちろん、今も、神がご自身を啓示してくださっている中で不十分ながらも、神を信じて歩むことができるようにされていますが、私たちはやがて顔と顔を合わせるようにして神を拝する時が来ます。その時には、私たちは完全に知られているように完全に知るようになる、ぼんやりではなく、神をさやかに知るようになるのです。
 そしてその時に残っていくのは、何ができるかということではなく、信仰と希望と愛の賜物なのだと、パウロはコリントの人々に語るのでした。


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