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Tコリント 4章1〜5節 2013年11月14日 |
このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。(1〜2) パウロは自分のことを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と言いました。パウロは「キリストの十字架によってもたらされた信仰によって受けるべき神の恵みとしての救い」を宣べ伝えていました。それこそが自分に明らかにされた神の奥義であり、その奥義を人々に指し示すことが、自分に与えられた使命であると認識していたのです。それは決して自分の中から出て来た知恵ではなく、パウロは神から託された奥義を管理しているに過ぎませんでした。ですからパウロは自分に大切なのは忠実であることと言いました。
ですからパウロは人の評判や評価、非難に振り回されることはありませんでした。パウロは、自分を裁く方である主だけを見つめていたからです。
人の評価は目に見える部分だけで決まっていきます。しかし、主は、隠れていること、心の中にあることをもごらんになります。私たちは見えない部分でも忠実に歩むと共に、見えることだけで人を裁かないように心したいと思います。
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Tコリント 4章6〜13節 2013年11月15日 |
いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。(7) 私たちにも尊敬する人がいるかもしれません。私たちが目標とし、また模範とするべきだれかを持っているということは本当にすばらしいことです。しかし、その尊敬する人を崇め、神格化するようになるとおかしなことになっていきます。おそらく、自分のしていることを正当化するために、その人の権威を借りるようになり、また誰かを見下げて誇るようになっていくからです。
私たちは十字架について私たちをあがなってくださった主イエスだけを誇るべきです。確かにお互いはそれぞれすばらしい賜物をいただいているかもしれません。しかし、何かができるとしたら、高慢にならないように気をつけなければなりません。あくまでもそれは神に預けていたただいた賜物です。私たちは何かを持っていたり、何かができたとしても、それを誇ることはできません。すべてのものは神から来ています。私たちは神をあがめ、ゆだねられている賜物をお互いの益のために用いるのです。
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Tコリント 4章14〜21節 2013年11月16日 |
わたしは主にあって愛する忠実なわたしの子テモテを、あなたがたの所につかわした。彼は、キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかたを、・・・あなたがたに思い起させてくれるであろう。(17) パウロはこの手紙でしばしば厳しい口調を用いるのですが、それはコリントの人々がパウロの「愛児たち」だからです。パウロはコリントの人たちに、「わたしにならう者となりなさい」と言いました。私たちはしばしば、「私を見ないで神さまを見て下さい」「私のまねはしないでください」と言います。謙遜という意味ではそれでよいと思います。しかし、それでもやはり、私たちはあとから続いてくる人たちの模範となるべきです。
パウロはコリントに自分の愛弟子のテモテを遣わそうとしていました。テモテの中にはパウロの「キリスト・イエスにおける生活のしかた」がしみついでいたからです。私たちお互いも、これが「キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかた」だと見せることのできるものを持っていたいと思います。神の国は口先の言葉ではなく、具体的な日々の歩みの中で力強く実践されていくべきものだからです。 |
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