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Tコリント 11章1〜16節 2013年12月5日 |
ただ、主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。それは、女が男から出たように、男もまた女から生れたからである。そして、すべてのものは神から出たのである。(11〜12) 次にパウロが取り上げているのは、女性は教会でかぶりものをすべきかどうかということです。ここでパウロは、女性はかぶりものをすべきだと主張します。女は自分が権威をもっているのではなく、男の権威のもとにおかれているからです。そしてかぶりものをかぶることが、その当時の社会通念だったのです。キリストを信じた女性たちが、もう自分たちは神によって自由なのだから、かぶりものなどはいらないし、男性の権威などどうでもよい、と言い出して教会や社会に混乱を与えていたのかもしれません。特に女性はほとんど教育の機会を与えられていなかった一世紀の社会においては、それは非常に大きな問題となる可能性をはらんでいたのでしょう。
今でもカトリック教会では女性は教会ではかぶりものをかぶる習慣が残っています。しかし、これは男性の方がすぐれているとか、権威をふるって女性を従わせてよいということではありません。実際には聖書の中には何人もの女性指導者達が登場します。そしてまた男なしには御案はないし、また女なしには男もないのです。
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Tコリント 11章17〜26節 2013年12月6日 |
主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。(23〜24) 次にパウロが指摘したのはコリント教会の中に分派が生じている、ということでした。もちろん、本物が明らかになるために分派しなければならないときもあるでしょう。しかし、コリント教会の分派・分争はおよそ、そのような信仰的なものではありませんでした。愛餐会のことであり、また聖餐の問題でした。「主の晩餐」と言われているのは、聖餐式のことです。聖餐が軽んじられ、先に来てひとりでパンを食べ、ぶどう酒を飲んで酔っ払っている人がいる・・・。
聖餐式は「主から受けたこと」、主が「来られる時に至るまで」守るようにと定められたものでした。主が十字架につけられる前の夜に、弟子たちにパンを配り、また杯をまわして、これは「わたしのからだである」「わたしの血による新しい契約である」と語り、それを通して、主イエスを記憶し、このお方の臨在を覚え、主の再臨を待ち望むためなのです。
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Tコリント 11章27〜34節 2013年12月7日 |
だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。(28)
カトリック教会では「化体説」と言って、まさにパンとぶどう酒が主イエスの体になり血になる、と教えます。また宗教改革者のひとりでもあったツウィングリはこのパンは主イエスの体を、ぶどう酒は主イエスの血を象徴するのだと言って「象徴説」を唱えました。しかし、今日、福音的な多くの教会では、単なる象徴ではなく、聖餐式においてパンが配られ、ぶどう液が手渡され、主イエスが聖餐式を制定された御言が読まれるときに、十字架に死に、復活昇天された主イエスがそこに現臨されるのだと教えています。
いずれにしても、聖餐はとても大切な礼典ですから、ふさわしくないままでこれにあずかるべきではありません。もちろん、自分の誠実さや真面目さで、ふさわしくなれるというのではありません。私たちは聖餐式のたびに、主の御前にへりくだって自分の罪を告白し、もう一度主イエスの十字架のあがないにすがって、この聖餐にあずかるのです。
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Tコリント 11章23〜33節 2013年12月4日 |
だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。(31) すべてのことは許されています。市場で売られている肉に関して、ひとつひとつ偶像の宮に献げられたものかどうかを問う必要はないでしょう。すべてのものは神のものであり、神に造られたものだからです。
しかし、すべてのことが許されているということは、何でもしてよいということではありません。私たちはそこで自分に問うべきです。それは人の徳を高めることになるだろうか。また、誰かにつまづきを与えることはないだろうか。
私たちは与えられている自由を、感謝して、神の栄光をあらわすために使うべきです。それは人の喜びにつながるだろうか、それとも自分を喜ばせようとしているだけだろうか(もちろん、人の顔色をうかがう必要はありませんが)。またそのことは誰かの救いにつながるだろうか。私たちはそのような基準によって、生きていくのです。
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