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Tコリント 10章1〜12節 2013年12月1日 |
だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。(12) このところでパウロは、キリスト者としてスタートしたということが自動的に永遠の祝福を約束するものではないということをコリント教会の人々に語ります。パウロはここでモーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民のことを思い起こさせます。
イスラエルの民が紅海を渡っていったのは、言ってみれば集団でバプテスマを受けたようなものです。そして彼らは同じマナを食べ、同じ岩から出た水を飲みました。しかし、彼らは偶像礼拝をし、不品行に身をゆだね、またつぶやいて主を試みました。そして、彼らの大多数は約束の国に入ることなく、荒野で滅んでしまったのです。
パウロはここで、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい、と注意を呼びかけます。救いの確かさを疑ったり、主イエスの十字架による救いに加えて、真面目に努力することが必要だというのではありません。しかし、自分は洗礼を受けているから何をしても大丈夫と罪を犯し続け、主に対してつぶやき続けるとしたら、約束の国に入ることはできないでしょう。自分の歩む歩み方に気をつけたいと思います。
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Tコリント 10章13節 2013年12月2日 |
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。(13) とても有名で多くの人に愛されている聖句です。私たちは様々な困難の中に置かれて悲鳴を上げ、また神につぶやくかもしれません。しかし、主は、あなたがたの会う試練はよくあることだと言います。私たちは、自分ほど大変な人、不幸な人はいない、とうそぶいたりします。しかし、それは「世の常」だというのです。
そしてパウロは言います。神は私たちが耐えることのできないような試練に会わせられることはない。また逃れる道をも備えていてくださる。
神は決して私たちを愛することを止めてしまったのでも、また試練の中にあって無力なのでもありません。どこまでも神は真実なお方です。すべての事柄は神のみ手の中にあります。神は、決して変わることなく私たちを愛し続けていて下さるお方、私たちが試練の中にあるときにも、私たちを支え、救うことができるお方なのです。つぶやくのではなく、このお方に信頼して歩んでいきたいと思います。
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Tコリント 10章14〜22節 2013年12月3日 |
それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。(14) 偶像の宮にささげられた肉を食べて何が悪いか、そんなことを問題にする方がばかげている、知恵をもって物事を見ればすぐに分かるはずだ、と自分の知恵を誇る人々に対して、パウロは偶像の問題を軽視することへの懸念を表しています。イスラエルの民がエジプトを脱出しながらも荒野で滅んでいったのは偶像礼拝をしたからです。それは単に目に見える、人が造った神々を拝むというだけではありません。救い主なる神をしりぞけて、神ではないものを神とするということであり、その最たるものは自分自身が神の場所に座るということなのです。
偶像自身は神ではありませんし、確かに、そこには私たちが礼拝すべき神はいません。しかし、パウロはここで偶像と悪霊とのつながりを指摘します。主の聖餐にあずかっている私たちがどうして悪霊の食卓に連なることができるでしょうか。それは主のねたみを引き起こします。主は私たちが、神を拝し、神を仰いで生きることを切に求めておられます。そして、神のねたみはまさに、主が私たちを真剣に愛しておられるしるしなのです。
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Tコリント 10章23〜33節 2013年12月4日 |
だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。(31) すべてのことは許されています。市場で売られている肉に関して、ひとつひとつ偶像の宮に献げられたものかどうかを問う必要はないでしょう。すべてのものは神のものであり、神に造られたものだからです。
しかし、すべてのことが許されているということは、何でもしてよいということではありません。私たちはそこで自分に問うべきです。それは人の徳を高めることになるだろうか。また、誰かにつまづきを与えることはないだろうか。
私たちは与えられている自由を、感謝して、神の栄光をあらわすために使うべきです。それは人の喜びにつながるだろうか、それとも自分を喜ばせようとしているだけだろうか(もちろん、人の顔色をうかがう必要はありませんが)。またそのことは誰かの救いにつながるだろうか。私たちはそのような基準によって、生きていくのです。
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