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ルカ 23章1〜12節     2012年12月19日

ヘロデはイエスを見て非常に喜んだ。それは、かねてイエスのことを聞いていたので、会って見たいと長いあいだ思っていたし、またイエスが何か奇跡を行うのを見たいと望んでいたからである。(8)

 サンヒドリンの裁判で主イエスは神を冒?したということで死罪判決を受けます。しかし、ローマの支配下にあって、ユダヤ人は死刑の執行をゆるされていませんでした。そこでユダヤ人指導者たちは、罪状をすり替えてローマ総督の下に主イエスを訴え出ます。それは、イエスは自分をユダヤ人の王と言って、ローマ皇帝に反逆しているという反逆罪でした。
 総督ピラトは、最初から主イエスがローマに反逆するような者であることは熟知しています。本音はこのようなことに巻き込まれたくないということだったでしょう。たまたま北部ガリラヤ地方に責任を持っていた領主ヘロデ(バプテスマのヨハネを処刑した人物)がエルサレムに上京しているのを聞いて、主イエスをヘロデの元に送ります。ヘロデは主イエスに会って、興奮します。何か不思議なことをして見せてほしいと思っていたのです。けれどもヘロデの中には、自分の罪を悔い改めて、主イエスを信じたいという思いはありませんでした。私たちはどのような思いで主をお迎えするのでしょうか。

ルカ 23章13〜25節     2012年12月20日

ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるように要求した。そして、その声が勝った。(23)

 ピラトの思いとは裏腹にヘロデはイエスを送り返してきました。ヘロデも、ピラトも、主イエスには死にあたるような罪がないことは知っていました。ですから、主イエスをむち打ってから赦すことにしようと呼びかけます。しかし祭司長・役人たち、またそこに集まった群衆は、イエスを十字架につけるようにと要求しました。群衆たちの中には、なぜ主イエスが十字架につけられなければならないのか全く理解していなかった人たちも多かったはずです。そもそも主イエスのことさえ、あまり分かっていなかったことでしょう。けれども彼らは宗教指導者たちに扇動され、周りの雰囲気に飲まれる形で、主イエスを十字架につけるように要求する声に乗っていったのです。そして、その声が勝った、と聖書は言います。この世では声が大きい方が力を持つことが多いかもしれません。しかし、声が大きい、多くの人たちがそう言っているということは、物事の正しさを保証することはありません。

ルカ 23章26節     2012年12月21日

彼らがイエスをひいてゆく途中、シモンというクレネ人が郊外から出てきたのを捕えて十字架を負わせ、それをになってイエスのあとから行かせた。(26)

 クレネ人シモンは北アフリカ出身でした。しかし、彼はこの過越の祭の時にエルサレムにいました。彼は異邦人でしたが、おそらく、聖書の神を信じる敬神者、または割礼を受けて正式にユダヤ教徒になった改宗者だったのでしょう。彼はこの祭に大きな犠牲を払ってやって来ました。世界中で過越の祭が行われる時に、今でもその締めくくりの祈りは、「来年はエルサレムで」という祈りの言葉です。やっとの思いでエルサレムに来て、さあこれから過越の祭だという時です。彼は宿を取っていた郊外からエルサレムに来た時に、十字架を負ってゴルゴダの丘に向かう主イエスに出会ったのでした。そして、ローマの兵隊は主イエスの十字架をシモンに負わせたのでした。
 何ということでしょう。楽しみにしてきた過越の祭がこれでは守れなくなってしまいます。しかし、ルカがここでシモンの名前を残していることから、最初の時代の教会でシモンが名前の知られた人物であっただろうといわれています。シモンはこれをきっかけとして主イエスと特別な出会いをしたのです。

ルカ 23章27〜31節     2012年12月22日

イエスは女たちの方に振りむいて言われた、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい・・・」(28)

 女たちは大声で泣きながら主イエスについてきました。彼女たちは、愛する主イエスの痛々しいお姿を見、またこれから、主イエスの身に起ころうとしていることを思い、悲嘆に暮れていました。しかし、主イエスは女たちのことを心配しておられます。主はやがてこのエルサレムに臨もうとしている大きな災難を知っておられました。紀元七〇年、エルサレムはローマの軍隊によって徹底的に破壊されてしまいます。とても凄惨な状況がエルサレムに起ころうとしていました。主イエスはそのことを思い、心を痛めておられました。
 主は「もし、生木でさえもそうされるなら・・・」と警告されます。その災いが臨む時に、信仰をもってその時を迎えることができるかどうかがとても大事です。私たちの信仰が試される時が来ます。その時に私たちの中に生きた信仰があるでしょうか。

ルカ 23章32〜38節     2012年12月23日

そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。(34)

 主イエスは、他の二人の犯罪人と一緒に十字架につけられました。両手両足に釘を打って十字架を立てます。それはそれは大きな痛みが犯罪人たちに臨みます。そのような中で、多くの犯罪人たちは世を恨み、人を呪い、ありとあらゆる罵詈雑言を吐くのだと言います。しかし、主イエスの口から最初に出て来た言葉は、父なる神に対する祈りの言葉でした。「彼らをおゆるしください」。
 「彼ら」とは誰のことでしょうか。主イエスのことをねたんで死に追いやった宗教指導者たち、主イエスを「十字架につけよ」と叫んだ群衆、主イエスを見捨てた弟子たち、主イエスに死刑を宣告したピラト、主イエスをさんざんバカにし、実際に刑の執行を担当した兵卒たち、そして、時代は違っても、同じように罪を犯し滅びるしかないのに、なお神に背き続ける私たち・・・。そんな私たちの罪を、主は十字架の上で身代わりに負い、私たちのためにとりなしの祈りをしてくださったのです。

ルカ 23章39〜43節     2012年12月24日

イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。(43)

 主イエスと一緒に十字架につけられていた強盗までもがイエスを馬鹿にして悪態をつきました。キリストなのに、どうして自分を救おうとしないのか、自分たちを救ってくれないのか。主イエスは自分を救おうとすればできたはずです。でもそれをなさらなかったのは、私たちの救いのためでした。主イエスが自分を救い十字架から降りてしまったら、私たちの救いはどこにもなくなってしまったでしょう。
 強盗の一人は、主イエスを見ていて、このかたは何も悪いことはしてない、この方はやがて御国の権威をもっておいでになる方だ、と信じました。自分のしたことを思うと、天国に入れてくださいとは言えなかったのかもしれません。でも、私を思い出してください、と語るこの強盗に、主は、「あなたはきょう、私と一緒にパラダイスにいる」と約束してくださったのでした。この男は何の善行も積めませんでした。けれども、主を信じ、すがったことのゆえに救われました。私たちの救いもまた同じです。主は、自分の罪を認め、信じ、すがる私たちに天国を約束してくださるのです。

ルカ 23章44〜49節     2012年12月25日

時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして聖所の幕がまん中から裂けた。そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。(44〜46)

 十二時になると太陽が隠れて、全地が暗くなりました。そして三時。主イエスが亡くなる頃に、神殿で聖所と奥の間(至聖所)を隔てていた幕が上から下まで真ん中から裂けました。至聖所は聖なる神に最も近いところとされ、イスラエルでも大祭司だけが、しかも一年に一度だけ近づいて、その幕の奥に動物の血を携えて入っていき、民のためにあがないをしたのです。その幕が裂けてしまったということは、誰でもが神に近づく道が開かれたことを意味しています。上から下に裂けた、ということも、このことが人間の側からの何かによってではなく、神の業によって起こった事を表しています。
 主イエスは最後にもう一度、「父よ」と祈り、最後まで神に対する信頼を全うされ、息を引き取られました。そこで刑の執行を担当した異邦人の百人隊長でさえ、この有様を見て、神をあがめ、主イエスを「正しい人」と言ったのでした。この正しいお方が私たちの罪を負って死んでくださったゆえに私たちの救いの道が開かれたのです。 

ルカ 23章50〜56節     2012年12月26日

ここに、ヨセフという議員がいたが・・・この人がピラトのところへ行って、イエスのからだの引取り方を願い出て、それを取りおろして亜麻布に包み、まだだれも葬ったことのない、岩を掘って造った墓に納めた。(50〜53)

 主イエスの葬りの記事です。ここにアリマタヤのヨセフという人物が登場します。彼はユダヤ人議会のメンバーの一人で、主イエスが神を冒?する者として断罪された時、彼もその議会の中にいました。彼は議会とは違う意見を持っていました。彼は密かに主イエスを信じる者となっていたようです。けれども暴走する議会の前になすすべもなかったのでした。
 しかし、主イエスが息を引き取られた時、彼は勇気を出して自分の旗色を鮮明にし、行動を起こします。主イエスの遺体の引き取り方をピラトに申し出たのです。主イエスはユダヤ人議会からは冒?罪、ローマ総督の法廷では反逆罪として訴えられ、十字架刑になった人物です。またここで主イエスの遺体に触れることは、過越の祭を棒に振ることになります。けれども、彼はここで主イエスの弟子、主イエスにつく者として自らを表し、自分のために用意してあった新しい墓に主イエスを葬ったのでした。あなたは自分の旗色を鮮明にできているでしょうか。


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