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ルカ 22章1〜6節     2012年12月9日

そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった。(3)

 イスカリオテのユダが最初から主イエスを裏切るために近づいてきたとは思いません。ユダもまた主が選ばれた弟子たちの一人でした。けれどもある日、サタンがはいった。おそらくその前段階があったはずです。悪魔の語りかけを聞き、その語りかけに耳を傾け、主イエスに対する不信が心の中に広がって行き、そしてついには、悪魔を心に受け入れ、イエスを裏切るという決断をしてしまう。
 罪の誘惑を受けること自体は罪ではありません。ただ、その誘惑を心の中にとどめて温めてしまうようになると、ある日、サタンに心をのっとられてしまいます。ユダは主イエスを裏切る見返りとしてお金を受け取りました。彼の中に金銭の誘惑に対するもろさがあったのも事実でしょう。そしてまた、他の弟子たちと同じように、この世の勇ましい王としての姿や人々の期待と、距離を置こうとする主イエスに対する失望もあったことでしょう。ユダが特別だったとは思いません。私たちは自らの姿を主に点検していただきたいと思います。

ルカ 22章7〜13節     2012年12月10日

弟子たちは出て行ってみると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。(13)

 「除酵祭」とは文字通りイースト菌を入れないパンの祭です。ユダヤ人たちは出エジプトを記念するこの過越の祭の七日間、家の中にイースト菌を置かず、またイースト菌を入れたパンを食べませんでした。そして、小羊をほふって、共に食べたのです。それは最初の出エジプトの日、エジプト中のういごが死んだ中で、入り口の二本の柱とかもいに小羊の血を塗った家だけは災いが過越したという、ところからきていました。
 主イエスは弟子たちと最後の過越の食事をしようとしておられました。けれどもガリラヤから旅を続けてきた彼らはどこでその食事を守ることができるでしょうか。
 主イエスはペテロとヨハネに指示を出して、その準備をさせます。もうちゃんと過越の準備の整った部屋が用意されている・・・。この「二階の広間」はペンテコステの時に聖霊が下られたその部屋でもあり、マルコの家だっただろうと言われています。神はおそらくあらかじめ、マルコの両親に不思議な語りかけを与えておられたのでしょう。すべてが主イエスのおっしゃっていたとおりでした。

ルカ 22章14〜23節     2012年12月11日

この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。(20)

 主イエスは弟子たちと一緒に席に着き、過越の食事をなさいます。そこでは小羊の肉や苦菜、種なしパンを共に食べ、ぶどう酒を飲みます。それは、エジプトでの苦難の歴史を思い起こし、主が成し遂げてくださったエジプトから救いを忘れないためでした。そしてユダヤ人たちはやがて主が成し遂げてくださる救いを共に待ち望んだのです。主イエスはやがて、過越の小羊が象徴していた救い主として自分自身が犠牲の死を遂げようとしていることを思いつつ、この過越を守られたことでしょう。
 続いて主イエスは最初の聖餐式を執り行われました。パンを取り、感謝してこれをさき、「これはわたしのからだである」と手渡し、杯を取って、「この杯はあなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である」と手渡されたのでした。主イエスが十字架の上で肉をさき、血を流してくださったことによって、私たちのために救いの道が開かれました。私たちは、この聖餐にあずかるたびに、主イエスが私たちの救いのためにしてくださったことを思い起こすのです。

ルカ 22章24〜30節     2012年12月12日

あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。・・・しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。(26〜27)

 主イエスが厳粛な思いで過越の食事をし、また聖餐式を制定なさり、自分を裏切る者がいると警告なさる中で、弟子たちは、また、自分たちの中で誰が一番偉いかという争論を始めました。弟子たちは主イエスが王として支配される時がまさに来ようとしていると期待する中で、その前に自分たちの序列を決めておこうと思ったのかもしれません。
 主イエスは弟子たちのやりとりを聞きながら、どんな思いでおられたでしょうか。弟子たちに語りかけられます。偉いとか上に立つと言うことは、君臨し、権力を振るうということではない。一番若い者のように、仕える者のように生きるということだ。そして、主イエスは語られます。私がどのような生き方をしてきたか、あなたがたは三年間見てきたはずだ。わたしはあなたがたの間で給仕する者のようにしている。それが人となってこの地上に来てくださった主イエスの生き方だったのです。偉くなってはいけないということではありません。偉いと言うことの意味が違うのです。

ルカ 22章31〜34節     2012年12月13日

しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。(32)

 弟子たちは皆、自分が一番主イエスに愛されている、自分が一番だという思いがあったでしょうし、少なくともあいつよりは上だというような思いがあったに違いありません。特にペテロには自分が一番という思いが強かったことでしょう。主イエスはしばしばペテロとヤコブとヨハネだけを特別に連れて行かれました。「あなたがたは私を誰というか」と主イエスが問われた時、弟子たちを代表するようにして「あなたこそ生ける神の子キリストです」と答えたのはペテロでした。年齢的にも一番上だったのではないかと言われています。
 けれども、そんなシモン・ペテロに、主は、サタンはあなたをふるいにかけるとおっしゃいます。ペテロは自分は獄屋にまでも死にまでもあなたについていきます、と答えるのですが、主イエスはきょう鶏が鳴くまでに三度私を知らないと言うとおっしゃたのでした。イエスはペテロを責めておられるのではありません。主はそんなペテロのために祈っていてくださったのです。

ルカ 22章35〜38節     2012年12月14日

そして彼らに言われた、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。(35)

 主イエスは弟子たちが散らされることを知った上で、財布、袋、剣などを持って行くようにとおっしゃいました。十字架の場面では自分のことは自分で守らなければならないからというわけではありません。主イエスは人間の弱さをご存じでした。主イエスが捕らえられ、十字架の死を遂げていく中で、弟子たちがどんなに不安な時を過ごすことになるかを知っておられたのです。そして弟子たちが恐怖や失望のあまり自暴自棄になったりすることのないように必要最小限のものを持っているようにおっしゃったのでしょう。剣もそれは決して振り回すためではなく、弟子たちが安全に逃げるための配慮だったと思います。
 もちろん、それはお金や剣に頼ることを勧めておられるのではありません。ですから、主イエスは弟子たちに、神にすがって歩んでいって何も困ったことはなかったよね、とまず確認なさったのでした。

ルカ 22章39〜46節     2012年12月15日

父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。(42)

 主イエスは「いつものように」「いつもの場所に」行かれて、そこでお祈りをなさいました。このゲッセマネの祈りはまさに死闘と言える祈りです。神の子イエスが、苦しみもだえ、血のしたたりのような汗を流しながら祈られたのです。御使があらわれて、イエスを力づけなければならないほど、その祈りは切迫した祈りでした。私たちにも、ここで祈らなければいつ祈るのだというような危機があるかもしれません。しかし、そのようないざという時にものを言うのは「いつもの」祈りの生活です。
 主イエスは、御心ならば、この杯を私から取り除けてください、と祈られました。主イエスにとって十字架は単なる肉体的な苦しみだけではなく、父なる神に裁かれ、捨てられるということを意味していたからです。しかし、主は、私の思いではなく、みこころが成るようにと祈られます。そして、主は祈りにおいて勝利して立ち上がって行かれたのです。

ルカ 22章47〜53節     2012年12月16日

そこでイエスは言われた、「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」。(48)

 イスカリオテのユダが近づいてきました。ユダも、主イエスがいつもどこで祈っておられるかをよく知っていたのです。そして、群衆の先頭に立ってイエスのところにやって来て、接吻をしたのでした。イエスの時代、写真やテレビのない時代であり、またまだ暗い時間です。なおさら誰かの手引きが必要だったのでしょう。その時代、接吻は親しい者同士の挨拶のしるしだったでしょう。ですから、これまでもユダは主イエスに接吻することがあっただろうと思います。けれども、ユダにとってこれは最後の接吻でした。そして、その最後の接吻をユダは、主イエスを裏切るために用いてしまったのです。
 主イエスはそんなユダに「ユダ、」と声をかけられます。「あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」。ユダに語られた最後の言葉です。主イエスはそれでも、ユダが悔い改めて生きることを願っておられたことでしょう。けれども、そんな愛に満ちた悔い改めの招きをも拒み続けて、ユダは破滅の道を進んでいってしまったのです。

ルカ 22章54〜62節     2012年12月17日

主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏がなく前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。そして外へ出て、激しく泣いた。(61〜62)

 ユダ以外の弟子たちにとって、主イエスが捕らえられるということは全く想定外の出来事でした。ペテロはそれでも、遠くからイエスについていき、大祭司の中庭に忍び込み、主イエスがどうなるのか探っていました。けれども、次々に、人々から「あなたは主イエスと一緒にいた」「あなたはあのイエスの仲間だ」「イエスと一緒にいた」と言われた時に、主イエスのことを三回とも否んでしまったのでした。
 すぐに鶏が鳴きます。そして、向こうにおられる主イエスが、ペテロの方を見つめておられるのをペテロは見ました。それはペテロをにらみつける批判的なまなざしではなかったでしょう。その時ペテロは、主イエスが語られた言葉を思い起こしました。私は言っていたよね。あなたのために祈っているからね。あなたは必ず立ち直る。あなたにはその時に大事な仕事がある。それはあわれみと気遣いに満ちたまなざしだったに違いありません。ペテロは激しく泣きます。彼はここで自分がどんなに弱く罪深い者であるかを思い知ったのでした。

ルカ 22章63〜71節     2012年12月18日

彼らは言った、「では、あなたは神の子なのか」。イエスは言われた、「あなたがたの言うとおりである」。(70)

 主イエスはユダヤ人議会で裁判を受けます。これはサンヒドリン(七十人議会)と呼ばれる会議です。基本的には宗教指導者たちによって構成されていて、議長は大祭司です。そして律法に基づいて物事を裁き、また決めていました。そこにはパリサイ人たちやサドカイ人たちなど、様々な宗派・異なる考え方を持った人たちが集まっていました。その議会の中にも、主イエスを信じる人たちや同情的な人々もいたようですが、大勢は最初から主イエスを死刑にするということで決まっていました。
 そして、彼らは「あなたはキリスト(旧約聖書に約束されている救い主)なのか」「あなたは神の子なのか」と問い詰めます。主イエスは、自分がやがて神の右に座すこと、また自分が神の子であることを明言されます。しかし同時に、彼らが信じないことも知っておられました。
 主イエスは、自分を「神の子」とおっしゃり、またキリスト、救い主であるとされました。二つの応答があります。主イエスを信じるか、または拒み、嘘つきだといって、抹殺するかなのです。


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