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ルカ 8章1〜3節     2012年9月16日

そののちイエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられたが、十二弟子もお供をした。(1)

 主イエスは町々村々をめぐりながら神の国の福音を説き、また伝えて行かれました。旧約聖書の中に約束されている神の国がまさに、そこに立っておられる主イエスによって到来していることを、主イエスは宣言していかれました。
 主イエスは、十二弟子を連れて行かれました。主イエスと旅を共にし、生活を共にし、働きを共にする中で弟子たちは多くのことを学んだことでしょう。主イエスの一行には女性たちも同行しました。彼らは、主イエスに悪霊を追い出していただき、また病を癒された感謝から、伝道旅行に同行し、一行に奉仕しました。
 私たちは、今日、主イエスを目で見ることはできませんが、私たちの働きに伴って下さる主は、昔も今も変わりません。私たちは、私たちのために救いを成就し、神の国を打ち立てて下さった主イエスを心から喜び、感謝をもってこのお方に仕えていきたいと思います。

ルカ 8章4〜15節     2012年9月17日

良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。(5)

 主イエスのところには大勢の人たちが集まって来ました。そこで主イエスは一つのたとえ話をされます。とても有名な四つの種のたとえです。種は神の言です。神の言には命があり、私たちの生涯にとても大きな働きをします。しかし、同じ神の言を聞いても、その聞き方によって、その言葉のもたらす結果はずいぶん違うものです。 道ばたにまかれた種は、悪魔に御言を奪い取られてしまう人、岩の上に落ちたのは、根がなくて、試練が来ると信仰を捨てる人、いばらの中の種は、御言以外に大事なことがたくさんあって、そのうちに御言が他のものでおおわれてしまう人。ですから表面的に御言を聞いて受け入れるかどうかというだけでなく、その御言を聞いたら、その御言を正しい良い心でしっかりと守ることが大切です。また、御言を信じて行こうとすると、様々な試練に遭うこともあります。忍耐も必要でしょう。けれども、知って下さい。御言はあなたの心で生え育って、百倍もの実を豊かに結ぶのです。

ルカ 8章16〜18節     2012年9月18日

だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。(16)

 直前にあった四つの種のたとえで問題とされたのは、神さまの言葉をどのように聞き、受け止め、その御言に生きるかと言うことでした。御言は光です。御言を聞くと、私たちの弱さや小ささ、罪深さがよく分かります。悔い改めるべきことが示されたら悔い改めて新しい歩みを始めましょう。御言の光は私たちを光にします。そして御言を聞いて、光とされた人は、それを多くの人たちの前に輝かせることが大切です。
 神さまからいただいた恵みを、その豊かなメッセージをおおってしまったり隠してしまったら、何のためにそれを聞いたのか分からなくなってしまいます。それだけではありません。御言の光を聞いても、まるで土の中に埋めてしまうかのように隠してしまったら、与えられたはずの恵みも失いかねません。けれども、もし、聞いた御言を大事に受け止め、その御言に生き、人々に証ししていくと、与えられている神の恵みがさらに豊かにされていくのです。

ルカ 8章19〜21節     2012年9月19日

神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである。(21)

 主イエスの母マリヤと兄弟たちがやってきました。主イエスに何かを言いたかったのでしょう。宗教指導者たちは主イエスを非難し、主イエスが病気の人を癒したり、悪霊を追い出したりしても、主イエスを信じないで、かえって「悪霊の頭」扱いをしましたから、噂を聞いた家族が心配して連れ帰ろうとしたのかもしれません。しかし、そこには大勢の人たちが集まっていましたから、主イエスに近づくことはできません。人に頼んで、イエスに来てほしいと伝えてもらったのでしょう
 けれども、自分の家族が来ているということを聞いた時、イエスは自分の家族のところに駆け寄っていくことはしませんでした。家族が自分の働きを止めさせようとしているのを知っていたからです。そして自分の肉親以上に深いつながりを持っているものとして、「神の御言を聞いて行う者」とおっしゃいました。私たちが主の言葉に聞き従っていくときに、主は私たちのことも家族として喜んでくださいます。もちろん、主イエスが自分の家族に冷たい仕打ちをされたということではなかったでしょう。後に主イエスの家族も、教会に連なって大切な役割を担っていくことになります。

ルカ 8章22〜25節     2012年9月20日

イエスは起き上がって、風と荒浪とをおしかりになると、止んでなぎになった。イエスは彼らに言われた、「あなたがたの信仰は、どこにあるのか」。(24〜25)

 主イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と語られます。そのところにいたら主イエスの人気は絶大であり、多くの人たちの賞賛の中にいることができたでしょう。向こう岸は異邦人の地です。その土地はあまり慣れていないところかもしれません。けれども、主は「向こう岸に行こう」と語られます。私たちにも、主は時に居心地の良い慣れ親しんだところを離れるようにと語られることがあります。
 弟子たちは主イエスと一緒に舟に乗り込みます。けれども、主イエスのお言葉に従って船出したその舟が大嵐に巻き込まれます。ガリラヤ湖の漁師たちが乗っていたにもかかわらず、彼らが死にそうだと叫ぶほどですからよほどの嵐だったのでしょう。
 弟子たちは眠っておられた主イエスを起こし、主イエスは風と波を叱って嵐を静めてくださいました。主イエスは弟子たちに、「信仰はどこに行った?」と問いかけられます。主イエスが一緒におられたら、私たちは何も恐れる必要はないのです。

ルカ 8章26〜39節     2012年9月21日

人々はこの出来事を見に出てきた。そして、イエスのところにきて、悪霊を追い出してもらった人が着物を着て、正気になってイエスの足もとにすわっているのを見て、恐れた。(35)

 主イエスが「向こう岸へ渡ろう」(22)と言われたのは、嵐の中でも寝てしまわれるほど疲れを覚え、休みを必要としておられたということと共に、この一人の男に出会うためだったのかもしれません。彼はゲラサの狂人とも言われるのですが、墓場をすみかとし、着物を着ないで、大声を上げていました。人々は何度も彼を鎖でつなごうとしましたが、彼はどんな鎖も引きちぎってしまいました。彼には大勢の悪霊が住みついていて、彼自身の意志や人格さえも悪霊たちに乗っ取られてしまっていたのです。
 けれども、主イエスはそんな彼にも近づいて、彼を悪霊から自由にしてくださいました。町の人たちからすれば、彼が悪霊から自由にされたということよりも豚に大きな損害が出たということの方が重大な問題だったでしょう。しかし、主は悪魔にとらわれた一人の人を救うことを大切にされました。彼は主イエスの足もとに座る者、主の御業を証しする者へと変えられたのです。

ルカ 8章40〜48節     2012年9月22日

しかしイエスは言われた、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」。(46)

 主イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と語られます。そのところにいたら主イエスの人気は絶大であり、多くの人たちの賞賛の中にいることができたでしょう。向こう岸は異邦人の地です。その土地はあまり慣れていないところかもしれません。けれども、主は「向こう岸に行こう」と語られます。私たちにも、主は時に居心地の良い慣れ親しんだところを離れるようにと語られることがあります。
 弟子たちは主イエスと一緒に舟に乗り込みます。けれども、主イエスのお言葉に従って船出したその舟が大嵐に巻き込まれます。ガリラヤ湖の漁師たちが乗っていたにもかかわらず、彼らが死にそうだと叫ぶほどですからよほどの嵐だったのでしょう。
 弟子たちは眠っておられた主イエスを起こし、主イエスは風と波を叱って嵐を静めてくださいました。主イエスは弟子たちに、「信仰はどこに行った?」と問いかけられます。主イエスが一緒におられたら、私たちは何も恐れる必要はないのです。

ルカ 8章49〜56節     2012年9月23日

しかしイエスはこれを聞いて会堂司にむかって言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」。(50)

 主イエスはヤイロの家に向かっておられたのです。けれども、途中で主イエスは「誰かが自分に触った」と言い出す。ヤイロにとってはどうでもよい話だったでしょうし、自分の娘のことを思い、気が気でなかったことでしょう。
 けれどもそこにヤイロが一番恐れていた知らせが届きます。「お嬢さんはなくなりました」という知らせでした。「間に合いませんでした。もうこれ以上、イエスさまに来ていただいても何もすることがありません」、家からの使いがヤイロに言いました。けれども、主は、そのことを耳にしながら、なおヤイロにおっしゃいました。「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」。そしてヤイロは黙々と主イエスについていきます。恐れや不安もいっぱいだったことでしょう。けれども、彼は主イエスの言葉を信じ、また主イエスの言葉に支えられて部屋に入っていきます。そして主イエスは本当にヤイロの娘を生き返らせてくださったのでした。


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