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ルカ 4章1〜13節     2012年8月18日

イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。(4)

 イエスの生涯を導く聖霊の働きを強調しているのもこのルカによる福音書の特色の一つです。ルカは使徒行伝の著者でもあるのですが、教会を導く聖霊の働きがすでに、主イエスの生涯において顕著であったことを示しています。
 ただ、聖霊の導きというのは、いつも私たちに楽をさせようとするものではありませんし、問題が起こらないことを保証するものではありません。実際、ここでも主イエスは聖霊に満たされ、御霊に引き回される中で、悪魔の試みにあわれたのでした。
 悪魔の試みは、神の子としての主イエスの働きに直接関わる重大な試練でした。主イエスは十字架による救いを打ち立てようとしておられたのですが、悪魔は何とか主イエスに十字架を避けさせようとしたのです。
 十字架よりもパンを与えた方が、悪魔にひれ伏した方が、または不思議な事を見せた方が、手っ取り早く、簡単に人々を救うことができるのではないか・・・。けれども、主イエスは聖書の言葉によって悪魔に勝利されたのでした。

ルカ 4章14〜21節     2012年8月19日

そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。(21)

 いよいよ主イエスの宣教の働きがスタートしていきます。主イエスは御霊の力に満ちあふれてその働きを進められます。そして、今も同じ聖霊が私たちのうちにも働いて下さいます。
 「会堂」というのはイスラエルが捕囚の時代に、神殿を失い、神を礼拝する場所を失う中で発達していきました。十家族のユダヤ人たちがいる町にはユダヤ教の会堂ができ、そこが神を礼拝する場、宗教教育の場となっていったのです。ユダヤ人たちは安息日ごとに会堂に集まって聖書に耳を傾け、共に神を礼拝しました。
 主イエスは自分が育たれたナザレの会堂に入り、そこでイザヤ書六一章を朗読して、この旧約聖書の言葉が今、成就したと宣言されます。まさにイザヤ書の言葉は主イエスを指し示していたのです。主イエスは旧約聖書の成就でした。主イエスが来られる前と来られてからは時代が違います。イエスはまさに時代の区切りとなり、新しい時代を始められたのです。

ルカ 4章22〜30節     2012年8月20日

すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。(22)

 ナザレの人々は主イエスが解き明かされる恵みの言葉に感嘆します。彼らはそのすばらしい教えに興奮するのです。けれども、その町の人たちにとって、イエスはあくまでも「ヨセフの子」であり、イエスを主として受け入れることはできませんでした。悔い改めて、イエスを救い主として信じることはできませんでした。
 確かに、イエスが小さいときからイエスのことを知っていた町の人々がイエスにつまづいたことは理解できます。けれども、主を受け入れない町の人々は、不信仰をいさめるイエスの言葉に逆上し、イエスを町の外の丘のがけまで引っ張っていって、イエスを突き落として殺そうとさえするのです。
 私たちはこの町の人たちの姿、その激しさ・かたくなさに驚きます。しかし、ナザレの人たちだけではありません。私たちも、御言を拒み、主イエスを信じ受け入れない時には、主を拒み、抹殺しようとさえするのです。

ルカ 4章31〜37節     2012年8月21日

みんなの者は驚いて、互に語り合って言った、「これは、いったい、なんという言葉だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じられると、彼らは出て行くのだ」。(36)

 カペナウムはガリラヤ湖畔の町です。主イエスはこの町をガリラヤ伝道の拠点とされました。イエスはその町の会堂で教えられたのですが、そこでイエスの説教を聞いていた人たちはその言葉に「権威」を感じました。借り物ではない、主イエスのうちから出てくる言葉の真実さに触れたのでしょう。
 悪霊につかれた人はイエスを見て叫びだします。まさに悪霊が悲鳴を上げていると言ってよいでしょう。しかし、イエスはこの悪霊を黙らせます。悪霊は主イエスが何者であるかを知っていました。しかし、ここで主イエスの真の姿が分かってしまうと、人々はイエスを自分のために利用することばかり考え、主イエスの十字架による罪のゆるしという救いが成就しなくなってしまう・・・主イエスはそれを拒まれました。主イエスはその人から悪霊を追い出します。悪霊もまた主イエスの言葉の権威の下に従わざるを得ませんでした。主イエスは、今も力と権威を持っておられます。

ルカ 4章38〜39節     2012年8月22日

そこで、イエスはそのまくらもとに立って、熱が引くように命じられると、熱は引き、女はすぐに起き上がって、彼らをもてなした。(39)

 昨日の個所では悪霊が主イエスの権威に従ったのですが、今日の個所では主イエスが命じられると熱が引いたということが記されています。高熱で伏せっていたのはシモン・ペテロの妻の母親でした。彼女はペテロの家に共に住んでいました。彼女の病気のことを知っていたカペナウムの人々は、彼女のために主イエスにお願いしたのでした。
 彼女にとって、ペテロが主イエスの弟子となっていくというのは本来とても複雑だったはずです。ペテロが漁をやめて主イエスに従っていったら、そのあとの生活はどうなっていくのでしょうか。けれども、彼女はそのことを受け止めていったはずです。それは彼女自身が主イエスが特別なお方であることを知り、また主イエスによって救われ、主イエスに仕えるものとされていたからです。高熱から解放された彼女はすぐに起き上って、イエスと一行をもてなしたのでした。

ルカ 4章40〜44節     2012年8月23日

しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。(43)

 「日が暮れると」とあります。ペテロのしゅうとめのいやしを聞いた人たちが夜になって集まってきました。仕事が終わってから主イエスのところにやってきたということかもしれませんが、同時にその中には、あまり人目につかない時間になってからということもあっただろうと思います。さまざまな困難を抱えながらも、人目をはばかるように生きている人たちもまたいたことでしょう。けれども、彼らも主イエスのところにやってきて皆いやされたのでした。
 イエスのうわさはどんどん広まり、さらに多くの人々が集まってこようとしていました。町の人々はイエスに離れないでほしいと言いました。けれども主イエスはさらに他の町々村々に進んで行かれました。主イエスにとって、自分を受け入れる町にとどまって自分がつかわされた目的を見失ってしまうということは許されないことだったからです。



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