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ルカ 12章1〜12節 2012年10月18日 |
五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。(6〜7) イエスさまのところに大勢の人たちが集まって来ました。主イエスは集まってきた群衆にも、パリサイ人たちの教えとその偽善的な考え方・生き方に注意するようにと教えられました。どんなに隠していてもその偽善はやがて明らかになっていきます。
大事なことは人からどのように見られるかではなく、恐れ、愛し、仕えるべき神の御前でどのように生きるかなのです。私たちは人の目を気にし、人を恐れて生きるのではありません。私たちが恐れるべきお方は、また私たちのことを本当に愛し、心にかけ、守ることができるお方です。
私たちは喜びをもってこのお方を証しし、このお方に仕えて行くのです。私たちはこのお方を拒むことはできません。私たちはこのお方が救い主であることを知っているからです。そして私たちを信仰に導いて下さった聖霊は、私たちを支え、私たちが人々の前でどのように主を証ししたらいいのか教えて下さるのです。
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ルカ 12章13〜21節 2012年10月19日 |
あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである。(15) 遺産相続の問題は聖書の時代にもトラブルの元になっていました。けれども、主イエスは助けを求めてきた人の心の中にある「貪欲」の問題に光を当てられたのでした。そして主イエスはひとつのたとえ話をなさいます。ある金持ちの畑が大豊作で、彼は笑いが止まらない。これで自分も安心だ、一生遊んで暮らせる、とさえ心の中で思いました。しかし、もしどんなに多くの財産をもっていたとしても、死んでしまったら何にもなりません。
私たちは自分の命をどうすることもできません。そして私たちがこの地上の生涯を終える時には、誰もその先の世界に地上で蓄えた財産を持っていくことはできません。
主イエスはおっしゃいます。人のいのちは、持ち物にはよらない。目に見える財産に頼り、貪欲に心を奪われて、自分のためだけに財産を使うとしたらそれはとても愚かなことです。神のために、また人を生かすために使うようにと、神は私たちに多くの賜物をゆだねておられるのです。
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ルカ 12章22〜31節 2012年10月20日 |
きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。(28) 財産がたくさんあるからといって、私たちがそれに頼って、その財産の多さに自分の魂の平安の根拠を持とうとするとすれば、それはとても愚かなことです。それと同時に、あれがない、これがないと心配するのも、神さまが私たちに願っておられることではありません。
からすは種をまいたり、刈り入れをしたりしないけれども、何も心配していない。神さまが彼らを養っていて下さっている。またすぐに枯れてしまうような野の花をきれいに咲かせて下さるのも、神さまだ、イエスさまは弟子たちにおっしゃいました。
そして、その神さまはあなたがたにもっとよくして下さる。私たちに求められているのは、私たちのことを愛し、心配し、すべての必要を満たして下さる神さまに信頼すること、そして、目に見えるこの世の財産や繁栄ではなく、神の御国を求めるということなのです。
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ルカ 12章32〜34節 2012年10月21日 |
恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。(32) 主イエスは弟子たちに「ただ、御国を求めなさい」と教えられた後で、恐れるな小さい群よ、と声をかけられます。神の国を求めるようにと言われて、弟子たちは正直、気の遠くなるような思いだったかもしれません。イスラエルでさえ、ローマの支配下にあって苦しんでいる。ローマ帝国はその当時の地中海世界を支配する超大国です。けれども、イスラエルでも、ローマでもない、御国を、と言われたとき、それはどんなに大きな拡がりと権威をもっていることでしょうか。とてもではありません、ガリラヤの漁師たちや無学な弟子たちの手に負えるものではありません。
しかし、主イエスは「恐れるな」と語りかけられます。父なる神は確かにそれを与えたいと願っておられるのです。私たちも「小さい群」です。しかし、主イエスはこの小さい群にも、神の国を求めるようにと励まして下さり、またそれを与えると約束してくださるのです。私たちは天に心を向けて歩む者たちでありたいと思います。
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ルカ 12章35〜40節 2012年10月22日 |
腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。(35〜36) 主イエスが人となってこの世に来て下さった時、すでに神の国、神の支配は始まったと言ってよいでしょう。けれども、主がもう一度帰ってこられる再臨の時は、まさに御国の完成の時です。
主イエスはその時は「思いがけない時」だとおっしゃいました。ですから大事なことはいつ主イエスの再臨があっても喜んで主をお迎えできるように備えているということです。
主をお待ちしながら今を生きると言うことは決して特別なことではありません。どんな時にも、またどこにいる時にも、当たり前のように、忠実な歩みをしているということです。怠けていたいたり、油断をして神を悲しませる歩みをしているということなく、今、ゆだねられている業を、それがどんなに小さなことであっても一つ一つ誠実に行っているということです。主の再臨を喜びと希望をもって待ち望みつつ忠実に日々を歩んでいると、主もまた再臨されたときに、私たちを喜びをもって迎えて下さることでしょう。
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ルカ 12章41〜48節 2012年10月23日 |
主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。(47) ペテロは主イエスに、この話は自分たちのためなのか、みんなのためなのか、と尋ねます。主イエスはこの問いに直接的には答えておられません。ただ主イエスの話は、自分に語られている言葉として聞くことが大切です。私たちも、主イエスの再臨を、忠実な思慮深い僕として待つことが求められているのです。
主人はいつ帰ってくるか分かりません。その主人がいつ帰ってきても喜んで迎える備えができているということは、特別な時に特別なことをするということではなく、毎日の歩みの中でコツコツと当たり前のように、誠実な歩みを積み重ねていくということなのです。
神は私たちにそのことを期待し、求めておられます。それは主が私たちにご自身のこころを明らかにしてくださっているからです。私たちは主人に信頼していただき、「主人のこころ」を知らされ、知っている者として、もうすぐ主が帰って来られるという喜びと期待をもって、忠実に自分に与えられている生涯を歩む者たちでありたいと思います。
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ルカ 12章49〜53節 2012年10月24日 |
わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。(49) 主イエスは確かに平和の君として来られました。しかし、主イエスの与える「平和」というのは決して問題が全く無い状態のことを言っているのではありません。かえって主イエスは自分は分裂をもたらす者だとおっしゃいました。主イエスの福音を聞く時、必ずそこにはそのメッセージを受け入れる人と受け入れない人がいます。親しい家族であっても、そこに分裂が生じてしまう。主イエスに従って行こうとすると、主に従いながら世と調子を合わせるということができない時があるのです。
主はまた、自分は火を投じるために来た、とおっしゃいました。「火」は聖書の中で「裁き」を意味すると共に、「不純物を焼き尽くすきよめ」をもたらすものでもあり、また「命」を意味することがあります。主はイエスは、火が燃えていたらと願っていたけれども、そうではない、とおっしゃっていますから、まさに主が投じようとしておられたのはきよめ、生かす火です。主はその火を投じるために、十字架の道を進んで行かれたのです。
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ルカ 12章54〜59節 2012年10月25日 |
偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか。(56) 私たちは天のしるしを見分けて、これから晴れていくるとか、嵐になるとか予測し、それに対する備えをします。神の救いの歴史もまた同じです。よくよく見ていると、神は多くのしるしを置いていてくださり、気をつけて見るなら、終わりの時が近いことを見分けることができるでしょう。それができないのは、ある意味、そのことを願っていないからです。自分の思いと反するようなしるしはきちんと見ようとしないのです。この記事の場所に集まっていた人々もまさに、神の子なるお方が人としてそこに立っておられるのを見ていました。そして、神の子イエスは、多くのしるしをもって、また御言をもってご自身のことを証ししておられました。それでも人々は信じなかったのです。
主の再臨の近いことを思い、そのために必要な備えを一つずつしていきましょう。今、何をすべきなのか、神は私たちに教えてくださいます。御霊の導きに従う者でありたいと思います。
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