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ルカ 14章1〜6節 2012年11月1日 |
イエスは律法学者やパリサイ人たちにむかって言われた、「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」。彼らは黙っていた。そこでイエスはその人に手を置いていやしてやり、そしてお帰しになった。(3〜4) ある安息日にパリサイ派のリーダーの一人が主イエスを食事に招きました。主イエスはパリサイ人たちが、ご自分に悪意を持っていることもご存じだったことでしょう。けれども主イエスはそんなパリサイ人の家をも訪ね、食事を共にされたのでした。その日は「安息日」であり、そこには「水腫をわずらっている人」がいました。おそらく、パリサイ人たちは、主イエスがどうするかをテストするために、この病気の人を利用したのでしょう。主イエスの「安息日に人をいやすのは、正しいことか」という問いにも彼らは答えません。主はこの人に手を置いておいやしになりました。
主は、安息日でも、自分の息子か牛が井戸に落ち込んだら助けてやるはずだと、彼らに語りかけられます。安息日にその人を助けるべきかどうかとそこで判断ができなくなってしまうのは、または安息日には助けてはいけないと言えるのは、「自分の」大切な人ではないからです。けれども主イエスにとってはその人もまた大切な存在でした。
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ルカ 14章7〜11節 2012年11月2日 |
おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。(11) まだパリサイ人の家での食事会の場面が続いているのでしょう。招かれたお客さんたちは、できるだけ上座に座ろうとしました。多くのお客さんの中で、自分がどんなに優れた人物であり、また主人であるパリサイ人のかしらに認められているかということをアピールする良い機会だと考えたのでしょう。
けれども、主イエスはその様子を見ながら招かれても上座につこうとしないようにと、と教えられます。その後に主イエスが語られた言葉は、誰にも納得できることだったに違いありません。ただ同時に、この地上の私たちの歩みにおいては、自ら進んで末座についていると、そのままそこに座っていることになったり、末座が自分の定席になってしまったりという現実があるのも事実です。おとなしくしていたら、ずっと上座につくことはできないかもしれない・・・。
しかし、主は自分を低くする者は高くされる、と教えられました。それが神の国の原則であり、主イエスの生き方だったのです。
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ルカ 14章12〜14節 2012年11月3日 |
宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。そうすれば、・・・正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう。(13〜14) 主イエスは自分を招いてくれた主人に話をします。それは昼食会や晩餐会を開く時には、親戚・金持ち・身分の高い人を呼ぼうとするなということでした。かえって、「貧しい人・体の不自由な人・足の悪い人・目に悪い人たちなど」を招くように、と主は教えられます。常識では考えられない話です。つまりどのお客を招くか、誰が来てくれるか、で自分の身分・立場がはっきりしてくる。また、当然、そこではお返しで、近い将来に自分も高貴なグループの集まるパーティーに呼んでもらいたい、という思いがあります。
けれども、主は、何か下心を持っていたり、また見返りを期待してということだと、もう報いを受けてしまっていることになる。だから、返礼などできない人たちを招きなさいと教えられました。この地上で報われることだけを求めていると、天の報いを失うことになります。私たちはいったい何を求めて歩んでいるのでしょうか。
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ルカ 14章15〜24節 2012年11月4日 |
主人が僕に言った、「道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい」。(23) そのパーティに招かれていた一人の人が、主イエスに言います。「神の国のパーティに招かれて食事をする人は、さいわいです」。どんなパーティーにまさって、天国の晩餐会に招かれて主と共に食事をするのはどんなにしあわせなことでしょうか。その意味で、彼の発言は本当に正しいものでした。そのことは認めつつ、主イエスは神の国の晩餐会について一つのたとえを語られます。
盛大な晩餐会が準備されていた。ところが招待客たちが、いろいろな理由をつけて一様に断り始めた。その理由というのは全く理由にならないような理由で、主人はとても立腹します。最初に招かれていたのに、せっかくの招待をギリギリで断ってきたのは、神の恵みをいただいていたユダヤ人たちであり、また自分は招かれて当然だと考えている人たちのことでした。けれども彼らは自らそこに入ることを拒んだのです。そして、その晩餐会とはまるで似つかわしくないと思われていたような人たちが招かれて御国に入ってくる、それはまさに私たちのことでもあるのです。
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ルカ 14章25〜35節 2012年11月5日 |
だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、・・・自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。(26〜27) イエスさまのところに大勢の人たちがついてきていました。それはまさに、この方こそがメシヤかもしれない、この方はこれからエルサレムに上って新しい国を打ち立てるのだ、という期待もあったと思います。けれども、そんな人々に、主イエスは、主の弟子として生きることの厳しさを語られます。主に従って行くときには多くのものを犠牲にしなければならないかもしれない、十字架を担い、また自分の財産を捨てきることも求められる。ですから、主に従う決断をする時には、まず、座ってよくそのことを考えることが必要です。主に従う道は時に孤独で、また他の多くの人たちとは違う道を歩むことになります。
けれども主は、自分に従ってくる人たちに高いハードルを課して、あきらめさせようとしておられるのではありません。主はその道がどんなに豊かな祝福の道かも知っておられます。だからこそ、それだけの覚悟をして従ってくるようにと期待し、招いて下さっているのです。
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