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ルカ 5章1〜6節 2012年8月24日 |
シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。(5) ペテロたちはガリラヤ湖の漁師でした。ガリラヤ湖の漁は夜が本番です。けれども夜通し働いたにも関わらず、その夜は何もとれませんでした。けれども、それでも傷んだ網を洗い、手入れしなければなりません。大漁の後の網の手入れは楽しいでしょうけれど、何も獲れなかった時の作業は本当に疲れるものです。けれどもそのようなところに主イエスが来られて、ペテロの舟を借り、船上から岸に集まる人々にお話をなさったのでした。
お話が終った時に、主イエスはペテロに沖へ漕ぎ出して漁をするようにとおっしゃいます。ペテロにはいろいろな思いがあったことでしょう。ガリラヤ湖のことは私の方がよく知っています。あなたは大工じゃないですか・・・。しかしペテロは、自分の姑をいやしていただいた主イエスに対する敬意もあったでしょう、「お言葉ですから」と舟を出し、網をおろしたのでした。結果は網が破れるかと思えるほどの大漁でした。ここで彼らは主イエスの言葉に従う生涯の祝福を知ったはずです。
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ルカ 5章7〜11節 2012年8月25日 |
すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。(10) 主イエスのお言葉通りにしたときに、ペテロたちは予想もしなかったほどの大漁を経験することができました。その時に、ペテロも他の漁師たちも喜びというよりも、怖れを感じます。漁師としての経験からすれば、絶対に魚が獲れるわけがない・・・彼らの目の前に起こっていることはまさに奇跡であり、神でなければできないことでした。そのような意味で、まさに彼らは聖なるお方の前にいるという怖れを感じるのです。またそこにあったのは、その聖なるお方の前に、自分は何と不遜な発言をしたことだろうかという自らの罪深さの認識でした。
そのような漁師たちに、主イエスは「恐れることはない」と声を掛けられます。そして、彼らに「今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」と彼らを召しだされたのでした。人間をとる漁師に「なりなさい」というのではありません。「なる」と約束してくださったのです。彼らは一切を捨てて主に従って行ったのでした。
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ルカ 5章12〜16節 2012年8月26日 |
イエスは手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、重い皮膚病がただちに去ってしまった。(13) 全身重い皮膚病に覆われて、汚れたものとされて絶望の中に生きていたひとりの人が、イエスさまが来られたのに気づいて、顔を地に伏せるようにして病のいやしを求めました。彼の病気は宗教的な汚れを意味していましたので、彼が言ったのは、もしあなたがそのことを願われるなら、「きよめて」いただけるのですが、ということでした。
主イエスは、彼に向って手を伸ばし、彼に触って、「わたしはそのことを願っている、きよくなれ」と声をかけてくださいました。まさに主イエスは、彼の汚れを共に担うかのように、彼に触れてくださったのです。彼の重い皮膚病はただちにきよめられました。主は私たちの汚れをも除き、私たちをきよくしてくださいます。まさにそれこそが主が望んでおられることなのです。私たちは大胆にこのお方に近づき、信頼をもってこのお方に触れさせていただきたいと思います。
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ルカ 5章17〜26節 2012年8月27日 |
イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。(20) 主イエスがある家で教えておられた時、そこには群衆がつめかけ、隙間のないほどになっていました。そこにひとりの中風の男が床に乗せられたまま連れられてきます。どうしても運び入れる方法がない・・・という中で、人々は屋根に上り、瓦をはいで、病人を床ごとイエスの前につり下したのでした。
主イエスは「彼らの信仰を見て」と聖書に書かれています。彼らというのはこの中風の男を主イエスのもとに連れてきた仲間たちのことでしょう。もちろん、私たちは救われるために、誰かに代わって信じることはできません。信仰はその人その人に求められています。けれども同時に、誰かが自分で動けない、自分で求めることができない、自分で信じられないという時に、仲間が祈りつつ信じて行動するというのはとても大切なことです。神様は私たちにそのような信仰をも求めておられるのです。
主は「あなたの罪はゆるされた」と宣言されます。この男に必要なのが、体の癒し以上に罪のゆるしであることを主は知っておられました。主はそのためにこの世に来られたのです。
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ルカ 5章27〜32節 2012年8月28日 |
わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。(32) 主イエスは収税所に座っていた取税人マタイに声をかけられます。彼はおそらくそこに座って、そこ通る人たちから通行税を取っていたのだろうと言います。しかし、いずれにしても取税人は当時その地域を支配していたローマに対して納める税金を徴収する代行業務を行っていましたから、ローマの手先として働いて自分の生計を立て、また時に私腹を肥やしている者として軽蔑されていました。ですから、主イエスがレビ(マタイによる福音書を書いた「マタイ」のこと)を弟子とされたことは大きな物議を呼び起こすことになります。レビは喜びをもってイエスのために「大宴会」を催します。ここからもレビが大きな財産を持っていたことが分かります。しかし、彼はその安定した仕事も財産もいっさいを捨ててイエスに従ったのでした。
宴会にはレビの知り合いが大勢集まってきました。宗教家たちに言わせると「取税人や罪人たち」です。「どうして」といぶかる彼らに、主は、罪人を招いて悔い改めに導くこと、それが自分がきた目的なのだ、とおっしゃったのでした。
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ルカ 5章33〜39節 2012年8月29日 |
新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。(38) イエスの生き方につまづきをおぼえる宗教家たちは、また主イエスに問います。バプテスマのヨハネの弟子たちもパリサイ人たちも、しばしば断食し、祈りをしているのに、あなたの弟子たちはいつ見ても食べたり飲んだりしている・・・。パリサイ人たちは自分の宗教性をアピールするかのように、人前で断食し、祈りをささげていましたから、なおさら、主イエスの弟子たちの姿とのギャップを大きく感じたのでしょう。確かに主イエスご自身はしばしば祈られ、また断食されたようですが、どちからというと寂しい所に退いて、一人で祈られることが多かったようです。
確かに主イエスとその弟子たちの生き方は、その他の宗教家たちの生き方とは違っていました。その理由を主イエスは二つの観点から語られます。一つは、主イエスの弟子たちは主イエスと出会い、共にいてとても大きな喜びの中にいるのだということ、もう一つは、主イエスの教えは新しく、それまでの教えの中に生きる人たちには異質だから、主イエスの教えに従い、生かされて歩む者には新しい生き方が求められるということなのです。
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