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ルカ 3章1〜6節     2012年8月12日

それは、預言者イザヤの言葉の書に書いてあるとおりである。すなわち「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。(4)

 ルカは主イエスの誕生について書く時にも、またここでバプテスマのヨハネが活動をはじめたことについて書く時にも、その時の政治情勢を記録することによって、具体的にいつそれが起こったのかを明らかにし、またそのことが確かに歴史の中に起こった事実であることを読者に訴えています。
 ザカリヤの子ヨハネは神の言葉を語り始めます。それは「罪のゆるしを得させる悔い改めのバプテスマ」でした。やがて来られる救い主をお迎えするために、罪を悔い改めて新しい生活をするようにとヨハネは勧めたのです。
 これはまた同時に、七百年前のイザヤの預言の成就でもありました。イザヤ四十章の救いと慰めの到来を告げる預言の中でイザヤは「荒野で呼ばわる者の声」について語っていました。そして、本当にヨハネが出て、救い主をお迎えする道備えをするようにと人々に語ったのでした。

ルカ 3章7〜14節     2012年8月13日

だから、悔改めにふさわしい実を結べ。(8)

 救い主が来られる!というメッセージは大きなインパクトをもって人々に受け止められます。ヨハネは辺境の地で語っていたにもかかわらず、多くの人たちがヨハネの下にやって来て、罪を悔い改めてバプテスマを受けたのでした。群衆たちの中に紛れ込むようにして、取税人や兵卒たちもヨハネのもとにやってきました。
 けれども。そのような民の中に、ヨハネはとても安易な悔い改めを見てとりました。ですからヨハネは口先だけの悔い改めを激しく非難し、神の激しい怒りを告げ、警告したのでした。大切なことは悔い改めにふさわしい実を結ぶこと、それは今までの間違った生き方、罪の生き方をやめて、神に喜ばれる真実な生き方、誠実で、憐れみ深い生き方を始めることです。
 私たちはどうでしょうか。私たちの悔い改めは、本当に悔い「改め」になっているでしょうか。ある意味、自分の取り分が減り、自分が当然としていた利益を放棄し、ある意味、自分が損をする決断であったとしても、神に喜ばれる道、救い主をお迎えするにふさわしい生き方の道を選ぶ者でありたいと思います。

ルカ 3章15〜17節     2012年8月14日

「・・・わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう・・・」。(16)

 ヨハネのところには大勢の人たちが集まって来ました。ヨハネのメッセージが大変厳しかったにもかかわらず、それまであまり神さまに関心のなかった人々までが悔い改めてバプテスマを受けました。その意味で、ヨハネのミニストリーは大変成功していたと言えます。人々は心の中で、もしかしたら、このヨハネが救い主ではないかと思い始めていました。自分が何者かでもあるかのように得意になって自分の業績を誇ってもしかたがないような状況の中で、彼は自分の立場、自分の召しをきちんと自覚していました。ですから、これから来られる救い主の前では自分は靴のひもを解く値うちすらないというのでした。
 彼は水で悔い改めのバプテスマを授けていました。しかし、救い主は火の働きをする聖霊によってあなたをきよめてくださるとヨハネは言います。主イエスは聖霊によって、私たちの心の汚れを焼き尽くし、私たちに新しい命を与えて下さるのです。

ルカ 3章18〜20節     2012年8月15日

ところで領主ヘロデは、兄弟の妻ヘロデヤのことで、また自分がしたあらゆる悪事について、ヨハネから非難されていたので、彼を獄に閉じ込めて、いろいろな悪事の上に、もう一つこの悪事を重ねた。(19〜20)

 この「領主ヘロデ」は主イエスが生まれたときにイスラエルを治めていたヘロデ大王の息子にあたります。父親は王としての称号を用いることをローマ皇帝に許されていましたが、その子の領主ヘロデはそれも許されず、父親の領地は四つに分割されて、彼はガリラヤとペレアの地方を治めていました。
 彼は自分の異母兄の妻であったヘロデヤを妻とします。現代的に言うと、「純愛」ということになるのかもしれません。けれども、それは神の嫌われることでした。バプテスマのヨハネは、相手が王であってもひるむことはありません。ヘロデの罪を指摘し、それを非難します。
 本当は領主ヘロデは、ここで悔い改めて神の前に出るべきでした。けれども彼は正しいことを言っていたヨハネを捕らえ、黙らせようとしました。自分の罪・過ちを指摘されたときに、謙虚になって神の前に出ることのできる人は幸いです。

ルカ 3章21〜22節     2012年8月16日

聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(22)

 主イエスは、バプテスマのヨハネのところに行って、彼からバプテスマをお受けになります。主イエスは罪のないお方でしたから、ヨハネのしていた悔い改めのバプテスマは本当は必要なかったはずです。けれども、主イエスはここで罪人の私たちと同じところに立ってくださったのです。
 ここには三位一体の神が表されています。神はお一人です。けれども三つの人格をもっておられます。子なるキリストが祈り、聖霊なる神が天より下り、天から父なる神が語りかけられます。この天からの声は主イエスの地上における働きがどのようなものであるかを表しています。主イエスは王なる救い主(メシヤ)として、またしもべなる救い主(メシヤ)として来てくださったのです。
 ルカは、たびたび、主イエスの祈っておられた姿を描いています。ここでも主イエスが祈っておられた時に、天が開けたのでした。私たちも祈りのうちに天が開ける経験をさせていただきたいと思います。

ルカ 3章23〜38節     2012年8月17日

イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって、人々の考えによれば、ヨセフの子であった。ヨセフはヘリの子、それから、さかのぼって、・・・エノス、セツ、アダム、そして神にいたる。(23、38)

 主イエスが宣教の働きを始められたのは、およそ三十歳の時でした。それまでは大工として家庭を支えておられたのでしょう。そして、ここから十字架・復活・昇天までの三年間を「公生涯」と言います。
 ルカはここで主イエスの系図を記録しています。マタイの系図と比較すると、マタイはアブラハムからイエスまで時代を下っているのに対し、ルカはイエスからさかのぼっています。マタイはアブラハムから始めていますが、ルカはアダム、そして創造主なる神にまでさかのぼっています。またルカの場合のダビデからイエスの系図はマタイと名前が違っています。聖書学者は、マタイはヨセフの側の、ルカはマリヤの側の系図をたどっているのだろうと言います。
 ギリシャ人であった福音書記者ルカはイエスの系図を神にまでさかのぼらせることによって、この救いのご計画が神のうちに初めからあったものであり、また全人類のために与えられているものであることを強調しているのです。



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