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ルカ 13章1〜5節 2012年10月26日 |
あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。(3) イエスが人々を教えておられたとき、そこにとても痛ましいニュースが飛び込んできました。ピラトが神を礼拝していたガリラヤ出身の人たちを殺害したというニュースです。その事件がどのような状況で起こったのか詳細は明らかではありません。しかし、そのような事件に巻き込まれてしまった人たちとその関係者たちの悲しみはいかほどだっただろうかと思います。そして、また私たちは、そのような不幸が起こったときに、あの人たちは何か悪いことをしたために神の裁きを受けることになったのではないかと考えるかもしれません。
けれども、その悲劇に巻き込まれた人たちが特別に罪深かったわけではないのです。ただ確かなことがあります。私たちが罪を犯し続ける時に、神の裁きとして受ける罰はもっともっと恐ろしいものだということです。そして私たちは人のことをどうこういうのではなく、神の前に自らを点検し、悔い改めるべきことはきちんと悔い改めたいと思います。主はゆるしと救いを与えて下さるからです。
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ルカ 13章6〜9節 2012年10月27日 |
すると園丁は答えて言った、「ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから・・・」。(8) ぶどう園の主人が、その一角にいちじくの木を植えました。主人は毎年、楽しみにそのいちじくの木を見に来るのですが、その期待はいつも裏切られました。全く実を結ばないのです。主人はぶどう園を管理する園丁に、いちじくの木を切ってしまうようにと命じます。しかし、園丁はもう一年待ってほしいと懇願したというのです。
ここで語られているのは神の憐れみ深さです。いちじくはよくイスラエル民族をあらわすたとえとして用いられました。実を結ばないいちじくは、まさに神の御旨から大きくそれて、神の栄光を表すことができなくなっているイスラエルの姿を表しています。でもそのイスラエルが今も保たれているのは、神の憐れみのゆえです。イスラエルだけではありません。私たちもまた神の憐れみによって生かされています。ただ同時に、その憐れみに甘えて自分勝手な生き方を続けていたら、必ず裁きが臨むということもまた覚えていたいと思います。
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ルカ 13章10〜17節 2012年10月28日 |
イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。(12〜13) ある安息日、主イエスが会堂で教えておられたときのこと、そこに十八年間も病気の霊にとりつかれ、かがんだままで体を伸ばすことできない女がいました。主は彼女を見て、呼び寄せ、「女よ、あなたの病気はなおった」とおっしゃり、手を彼女の上に置かれました。主は彼女を憐れみ、病気の霊から解放し、健やかにしたいと願われたのです。この女は癒され、神をほめたたえます。
けれども、喜んで、神をたたえている彼女を尻目に、苦々しい顔をして、神をたたえることのできない人がいました。その会堂の管理者であった会堂司です。彼は憤っていました。主イエスの癒しは治療行為であり、安息日にしてはいけない、「仕事」になると考えたのです。
しかし、主は彼の偽善を、彼の論理の矛盾を鋭く指摘されます。安息日でも水を飲ませるために家畜を小屋から解いてやる。サタンにとらわれているこの女性を解放することは間違っているだろうか。主イエスはまさにこの安息日に神を礼拝しに来たこの女に、その日に解放を告げたいと願われたのです。
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ルカ 13章18〜21節 2012年10月29日 |
神の国は何に似ているか。またそれを何にたとえようか。一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる。(18〜19) 主イエスは神の国をからし種やパン種にたとえられました。からし種は小さな小さな種です。しかし、まかれるとどんどん大きくなって、空の鳥が宿るほどの大きな木になります。なぜでしょうか。どんなに小さかったとしてもその種には命があるからです。
パン種とはイースト菌のことです。ほんの少しのパン種でも全体を膨らませます。なぜでしょうか。イースト菌も生きているからです。
「神の国」も小さいかもしれません。けれどもそこには命があります。ですから、必ず大きく育ちますし、またこの世に影響を与えることができます。大事なことはそのからし種が、またパン種が、地にまかれることであり、パン生地の中に練り込まれていくことです。種を大事に大事にとっていたら、神の国の命と力があらわされることはないでしょう。小さな教会、そして小さな私・・・でもそんな私たちの内にも神の命があふれています。
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ルカ 13章22〜30節 2012年10月30日 |
家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人は・・・『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう。(25) 主イエスはエルサレムに向かって旅を続けられます。そこで私たちの罪のあがないを完成するために十字架につくのです。そんな中で、ある人が主イエスに尋ねます。「主よ、救われる人は少ないのですか」。この人がどういう意図でこの問いをしたのか、あまり定かではありませんが、その後での主イエスの答えを見ていくと、どうも、この人は自分が神の国に入ることは自明のこととしてこの問いを発したようです。ですから主イエスは、彼に対しても「狭い門から入るように努めなさい」と勧められます。
主イエスを知っている、主イエスの話を聞き、時間を共に過ごしたということは神の国に入ることを保証しません。狭い戸口から入るという決断と行動が必要です。そして、その決断をするためには時があります。間に合わなくなる時が来ます。ですから私たちは、今日、主に従う決断をしたいと思います。
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ルカ 13章31〜35節 2012年10月31日 |
ああ、エルサレム、エルサレム・・・ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。(34) あるパリサイ人たちが主イエスのところに来て、ガリラヤ地方を治めていたヘロデが、主イエスを殺害しようとしていると警告し、身を隠すようにと勧めました。しかし、主イエスは、逃げることも、エルサレムに向かうことを止めることもなさいませんでした。救い主がエルサレム以外の場所で死ぬことはないという、神のご計画への信頼があったからです。
そして、主イエスはエルサレムに対する嘆きの叫びを上げられます。主は本当にその都を愛しておられました。そして、民が何度主に背き、また主を捨てても、神はなおも赦しと救いを備えて、彼らを招き続けてこられたのでした。けれども、エルサレム、そしてその町に代表されるイスラエルの民は、神の愛を拒み続けたのでした。主は、やがてその町が捨てられ、廃墟となっていくことを思い、悲しみの叫びを上げられます。けれども同時に、主は再び神への賛美が高らかにささげられる日が来ることも見ておられたのでした。
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