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ヨハネ 18章1〜11節 2013年3月27日 |
イエスは、自分の身に起ろうとすることをことごとく承知しておられ、進み出て彼らに言われた、「だれを捜しているのか」。彼らは「ナザレのイエスを」と答えた。イエスは彼らに言われた、「わたしが、それである」。(4〜5) 主イエスはケデロンの谷の向こうにある園に移動されます。そこは他の福音書ではゲッセマネの園と呼ばれる場所で、ケデロンの谷を挟んで、エルサレムの東側にあります。そこからはエルサレムの神殿、その町を一望することができます。過越の祭は満月の頃ですから、エルサレムの町は月明かりで照らされていたことでしょう。主イエスはそこで真剣な祈りをささげられたのでした。
さてそこにイスカリオテのユダを先頭に、一隊の兵卒や群衆が近づいてきます。主イエスは「誰を捜しているのか」と問われます。「ナザレのイエスを」という声に、主イエスは自ら進み出るようにして、「わたしが、それである」とおっしゃいます。人々は後ろに引き下がって倒れた、と聖書は言います。この「わたしが、それである」との言葉は、旧約聖書の燃える柴の場面で神がモーセにおっしゃった「わたしは有る」(出エジプト三14)という神の自己顕現につながる言葉なのです。主はまさにここで主の主としてご自身を示されたのでした。
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ヨハネ 18章12〜27節 2013年3月28日 |
大祭司の僕のひとりで、ペテロに耳を切りおとされた人の親族の者が言った、「あなたが園であの人と一緒にいるのを、わたしは見たではないか」。ペテロはまたそれを打ち消した。するとすぐに、鶏が鳴いた。(26〜27) ペテロは主イエスに「あなたのためには命も捨てます」と言っていました(十三37)。そして、主イエスが捕らえられた時にも、剣を抜いて一人、気を吐きます。しかし、所詮ペテロは漁師ですし、また多勢に無勢です。主イエスが弟子たちを安全に逃がされた時に、ペテロもまた闇に姿をくらまします。しかし、その後、我に返ったペテロは大祭司の知り合いであった弟子(おそらくヨハネ)と共に、人々の後について行き、大祭司の庭に潜り込むことに成功します。裁判の行方を見守りながら次の一手を考えようとしたのでしょう。
けれども、門番の女に「あなたも、あの人の弟子のひとりではありませんか」と言われて、口から出て来たのは「いや、そうではない」という言葉でした。「あなたはイエスの弟子だろ」という言葉に彼は「いや」と言ってごまかし、また強く否定したのでした。三度目の時に、鶏が鳴きます。主イエスがおっしゃった通りでした。主は私たちの弱さ、もろさ、罪深さを知っておられます。そんな私のために主は死んでくださったのです。
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ヨハネ 18章28〜40節 2013年3月29日 |
ピラトはイエスに言った、「真理とは何か」。(38) 夜明けにユダヤ人指導者たちは主イエスをローマの総督ピラトのところに連れて行きます。ピラトはローマ皇帝から任命されてユダヤの統治をゆだねられていました。その当時、ローマの占領下にあって、ユダヤ人たちには死刑を執行することが許されていませんでした。そこで主イエスを殺すために、ローマの法律の下で裁いてほしいと連れて行ったのです。「この人は悪事を働いた」と彼らは主イエスを訴えます。自分を王と称してローマ皇帝に謀反を企てているという重罪、「反逆罪」で訴えたのです。
ピラトは主イエスを呼び出して、一応の取り調べをします。「あなたは王なのだな」。主イエスはそれに対して「わたしは王である」と答えられます。しかしその国はこの世のものではありませんでした。そして主イエスは、ピラトに、自分は真理について証しをするためににこの世に来たとおっしゃいます。ピラトは主イエスに「真理とは何か」と尋ねます。ピラトは政治権力を握りながら、自分の内にも、自分の周りにも「真理」がないことに気づいていたのでしょう。真理は主イエスのところにこそあります。主イエスご自身が真理なのです。
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