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ヨハネ 9章1〜12節     2013年2月15日

本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。(3)

 道に生まれつきの盲人がいました。そこに座って物ごいをしていました。目の見えない彼は、その当時は、人の憐れみにすがってでなければ生きていけなかったのです。弟子たちも彼のことを気の毒と思ったことでしょう。けれども同時に、そのような「不幸」の中に置かれている時に、人々は神に捨てられ、裁かれていると言い、またこの人がこのようになってしまったのは何かの因果であろうと考えるのです。この人が罪を犯したからですか、それとも両親ですか。この盲人自身も何度も問うた問いだったに違いありません。
 しかし、主イエスは弟子たちも、またこの盲人本人も期待しなかったような答えをなさいます。「ただ神のみわざが、彼の上に現れるため」。そして、その日、彼の目が見えるようにしてくださったのです。単に彼の障害が取り除かれ、彼が幸せになるためではなく、神の御名があがめらるためでした。

ヨハネ 9章13〜34節     2013年2月16日

ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです。(25)

 人々は目が見えるようになったこの男に繰り返し尋ねます。「どうして見えるようになったのか」。人々の理解を越える出来事がそこに起こっていたのです。
 しかし、そのようなしるし、神のみわざを見、また確認しても、パリサイ人たちは主イエスを信じようとしませんでした。それはその癒しの奇跡が起こったのが安息日だったからです。仕事をしてはいけない安息日に医療行為を行った主イエスは救い主でも、預言者でもない、神から来た人ではなく、罪人だというのです。
 けれども、この男の論理は実に明快です。自分はかつては目が見えなかった。見たことがなかった。でも主イエスが私に出会ってくださった時、私の生涯は変えられた。私は見えるようになった。このようなすばらしいことを私の生涯にしてくださったお方は神から来られた方で間違いない。彼は、自分に起こった神のみわざを黙っていることができなかったのです。あなたの生涯には神のどんなみわざが現れたでしょうか。

ヨハネ 9章35〜41節     2013年2月17日

もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。(41)

 主イエスによって目が見えるようにしていただいたこの男は外に追い出されてしまいます。主イエスを証しすること・讃えることをやめなかったからです。けれども、同時に彼は、目が見えるようになってから主イエスの前に出ていませんでした。主イエスの御顔は見たことがなかったのです。主はそのような彼のところに現れ、今、あなたと話しているのが、人の子、救い主だ、とおっっしゃいます。彼は「主よ、信じます」と告白して、イエスを礼拝します。
 この男は主を信じ、救いをいただきます。けれども、当時の宗教家たちは、主イエスにつまづいてしまいました。イエスさまは「あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」とおっしゃいました。単なる肉体の目の問題ではありません。霊的な目、主イエスを信じる心の目です。それが見えない、ということをまず認めるところから救いは始まります。見えない、ということを認める人は、神の救い・憐れみを求めるからです。



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