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ヨハネ 14章1〜4節 2013年3月9日 |
あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。(1) 「鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言う」という主イエスの言葉をこの時、ペテロがどれだけ真剣に受け止めていたかは分かりません。けれども、いずれにしても、この一連の主イエスとのやりとりは弟子たちをとても不安にさせたことは確かでしょう。けれども、主イエスは心を騒がせるな、とおっしゃいます。人間的には、この状況の中で心を騒がせないでいることは不可能に近いでしょう。だから主は、神を信じ、またわたしを信じなさい、とおっしゃるのです。
主がしばらく弟子たちを離れ、誰もついて行くことができないとしても、主は決して弟子たちを見捨てられたのではなく、弟子たちのために場所を用意しに行ってくださったのです。ここで「すまい」と訳されている言葉は決して小さな小屋のことではありません。主は、きちんとした豪邸を私たちのために備えてくださるのです。そして、一時的に、主イエスが弟子たちを離れられたとしても、それはとこしえに主イエスと共に住むためだったのです。
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ヨハネ 14章5〜7節 2013年3月10日 |
わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。(7) 主イエスは父のみもとに行こうとしておられました。けれども、主イエスは単に自分は弟子たちを残して父なる神の所に上っていくけれど、あなたがたは自分でなんとかしなさいというのではなく、わたしこそが、そして、わたしだけが父の所にいく道だ、とおっしゃいました。本来、罪深い私たちが父なる神のもとに行くことができるはずがありません。けれども、主イエスご自身がその十字架のあがないによって、私たちが神に近づく道となってくださったのです。
また主イエスは「真理」です。時代が変わっても、また場所や民族が変わっても、このお方は変わることのない真理です。このお方に信頼していたら裏切られることはありません。信じていたことが無駄になってしまうこともありません。主イエスは「命」です。ご自身が命を捨てることによって、私たちに豊かな命を、永遠の命を与えて下さったのです。
主は「わたしは」とおっしゃいました。私たちはこの「わたしこそが道。真理、命」と宣言されるお方にすがり、信頼して歩むのです。 |
ヨハネ 14章8〜15節 2013年3月11日 |
よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。(12) 主イエスは、ご自分を父とひとつとおっしゃいます。もちろん、子なるキリストと、父なる神をごちゃまぜにしてしまうのは間違いですが、父と子の間に深い交わりがあることを私たちは忘れてはいけません。ですから主イエスは、わたしを知っている者は父を知っており、私を見た者は父を見たのだとおっしゃるのです。まさに、主イエスは神の位を捨てて人となり、見えない神を私たちに見える形で示してくださったのです。
そして主は、ご自分が父のみもとに帰ったら、主イエスを信じて歩む者は主イエスがしておられるわざをする、もっと大きな業をするとおっしゃいます。この地上を歩んで神を示された主イエスのように、私たちもその生き方を通して、主を指し示していくのです。そして私たちを通してさらに多くの人たちが主イエスの弟子に加わっていくことでしょう。
主は信じる者に、「祈る」という特権を与え、神の栄光のために求められたその祈りをかなえると約束してくださったのです。
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ヨハネ 14章16〜17節 2013年3月12日 |
わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。(16) 主イエスは弟子たちに対して、父は別に「助け主」を送って下さると約束してくださいました。この助け主とはギリシャ語ではパラクレートスという言葉です。これは「援助のためにそばに呼ばれた者、とりなしてくれる人」という意味があります(新改訳聖書欄外注)。新共同訳聖書ではこれを「弁護者」と訳していますが、もともとは法廷用語だったと言われています。法廷においてはどんな弁護者がついて、どんな弁護をしてくれるかがそこに立った者の運命を決めていきます。
人間の世界の弁護士の中には、黒を白にしてしまうような人もいて、そのような人が重用されたりしますが、この弁護者はあくまでも「真理」の御霊です。もちろん、真理に基づいて裁かれたら、私たちはみな有罪で裁きをまぬかれることはできません。しかし、このお方は主イエス・キリストのあがないが私のためでもあったことを力強く宣言し、私たちにキリストのあがないを適用し、救いを確証してくださるのです。 |
ヨハネ 14章18〜24節 2013年3月13日 |
わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。(18) 主イエスはまもなく、三年間の公生涯を終えて、弟子たちと離れ、ひとり十字架につこうとしておられました。そして、復活してからも、天に昇り、父のもとに帰って行こうとしておられます。「世はもはやわたしを見なくなる」と主イエスがおっしゃるのはそういうことです。
けれども、主イエスは弟子たちを捨てることも、孤児にすることもない、とおっしゃいます。「しかし、あなたがたはわたしを見る」。もちろん、肉眼で主イエスを見ることはなくなるでしょう。しかし、自分が主の恵みの中に生きているということを知るときに、主が生きていることを知ります。また自分のうちに、自分たちのうちに、主が生きていて下さることが分かるのです。
主イエスを愛し、主の戒めを守って生きる人のところに主は来て共に住んで下さいます。罪の中に死んでいた自分が、主を愛し、人を愛して生きるということは、まさにあり得ないことです。けれども主がそのことを私たちのためにしてくださる・・・そして私たちは、私たちの内にそのような業をしてくださる主を崇めるのです。
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ヨハネ 14章25〜31節 2013年3月14日 |
わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。(27) 主イエスは、弟子たちに対して、まもなく遣わされようとしている「助け主」なる聖霊について語ります。このお方は私たちの願いをかなえる単なる「お助けマン」ではありません。このお方は、私たちに主イエスの言葉を思い起こさせてくださいます。私たちは毎日、聖書を開いて御言を読みます。また毎週の礼拝に出席して、御言に触れます。その御言は読んですぐには心に残らないかもしれません。それでも、どうぞ御言を読み続け、御言を心に蓄え続けて行ってください。必要な時に、聖霊は私たちに御言を思い起こさせ、また御言を理解できるようにしてくださるからです。それは、なんと大きな助けでしょうか。
主イエスは再び、「心を騒がせるな」と語られます。この時の弟子たちだけではありません。今日歩んでいる私たち一人一人も心が騒ぐことがあります。そのために、主は聖霊を与え、また十字架を前にしてもご自身のうちにあった平安を私たちに与えて下さるのです。
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