chuo@8008amen.com


バックナンバー

旧約聖書
新約聖書
マタイによる福音書
マルコによる福音書
ルカによる福音書
ヨハネによる福音書
(章) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
  11 12 13 14 15 16
  17 18 19 20 21
使徒行伝
ローマ人への手紙
コリント人への第一の手紙
コリント人への第二の手紙
ガリラヤ人への手紙
エペソ人への手紙
ピリピ人への手紙
コロサイ人への手紙
テサロニケ人への第一の手紙
テサロニケ人への第二の手紙
テモテへの第一の手紙
テモテへの第二の手紙
テトスへの手紙
ピレモンへの手紙
ヘブル人への手紙
ヤコブの手紙
ペテロの第一の手紙
ペテロの第二の手紙
ヨハネの第一の手紙
ヨハネの第二の手紙
ヨハネの第三の手紙
ユダの手紙
ヨハネの黙示録
ヨハネ 7章1〜9節     2013年2月4日

そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った、「あなたがしておられるわざを弟子たちにも見せるために、ここを去りユダヤに行ってはいかがです・・・」。(3)

 ユダヤに住んでいる宗教指導者たちは、主イエスに対する殺意をいだいていました。主はそのような中でユダヤを避けておられました。もちろん主が宗教指導者たちを恐れておられたのでも、また死ぬことを怖がっておられたのでもありません。主イエスは父なる神の御心の時が来るのを、約束の時が満ちるのを、待っておられたのです。
 ただ主イエスの弟たちは、そのような主イエスの思いを知ることができません。もし、世に自分を知らしめ、自分の教えを広めようとするなら、ユダヤで働きを進めるべきだと進言します。もっともです。確かにユダヤは政治的・文化的・宗教的中心地です。そこで認められなければ世に出ることはできないでしょう。そして、特に、祭の時は世界中から礼拝者たちが集まって来ます。教えを広めようとするなら最大のチャンスと言えます。けれどもこのように語ったのは兄弟たちが主イエスを信じていなかったからだ、とヨハネは言います。信じない人には主を理解することはできません。

ヨハネ 7章10〜24節     2013年2月5日

うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい。(24)

 兄弟たちにはこの祭には行かない、と言っておられた主イエスでしたが、あとからひそかにエルサレムに上られます。弟たちがいうような、有名になり、権力を握るために何かをするという動機を全く持っておられなかった主イエスは、兄弟たちに言われて、人々を扇動するためにそこにいるかのように誤解されるのを避けられたのでしょう。
 主イエスが宮で教え始められた時に、人々は主イエスの豊かな聖書知識、深い理解に驚きます。その驚きは主イエスがどこかの学校に通ったり、また先生について正式に学問をしたりということでなかったことからも来ていました。主イエスはまさに神から聞いて人々に語っておられたのです。
 多くの人々は主イエスが正式に学問をしていないと言ってつまづき、また安息日に人を癒していると言ってつまづいていました。その人の外側のいろいろなものを見て全体を判断し、ものごとの本質を見ようとせず、また主イエスを信じようともしない人々に、主は警告されたのでした。

ヨハネ 7章25〜31節     2013年2月6日

わたしをつかわされたかたは真実であるが、あなたがたは、そのかたを知らない。わたしは、そのかたを知っている。わたしはそのかたのもとからきた者で、そのかたがわたしをつかわされたのである。(28〜29)

 主イエスのことはとても評判になっていたのでしょう。一つは多くの奇跡をなさり、とてもすばらしい教えをされたということです。もう一つは、この主イエスがねたまれ、宗教家たちから非常に厳しい、死罪にあたるという評価をされているということでした。
 けれども、主イエスは逃げ隠れすることなく、公然と人々を教えておられました。主イエスは、私は自分からきたのではなく、真実なお方に遣わされてきたのだとおっしゃいます。確かに人々が知っていたのはナザレ出身のイエスということだったでしょう。目に見えるところではそれも本当なのですが、同時に、このお方を前提条件や偏見無しに見るなら、主イエスが神から来られた方であることを否定することはできないでしょう。私たちは、主イエスが教えてくださらなければ、主を遣わされた神のことを知ることはできません。神を知りたければ、主イエスを信じるしかないのです。

ヨハネ 7章32〜36節     2013年2月7日

イエスは言われた、「今しばらくの間、わたしはあなたがたと一緒にいて、それから、わたしをおつかわしになったかたのみもとに行く・・・」(33)

 自分たちが手を出せない間に、民衆の中にイエスのことをメシヤかもしれないという噂が広まり、イエスを信じようとする動きが出てくる中で、パリサイ人たちや律法学者たちは大きな懸念を感じ、またイエスを捕らえるために下役たちを送ります。
 主イエスは自分の時が限られていることを知っておられました。まもなく自分は自分をつかわされたお方のもとに帰る。もちろん、その前に主イエスは十字架の苦しみを経てあがないの業を成就しようとしておられました。この十字架・復活・昇天という歩みは、ある意味、だれもついて来ることができない道でした。弟子たちでさえも、主イエスを見失ったのです。
 けれども、主イエスはいなくなってしまったのではありません。よみがえって今も生きて、神の御座の右に座し、私たちのためにとりなしていてくださいます。そして、主イエスを信じる人は、このみもとに上られた主イエスによって、父のみもとに行くことができるようにしていただけるのです。

ヨハネ 7章37〜44節     2013年2月8日

「・・・わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。(38〜39)

 「祭の終わりの大いなる日」というのは仮庵の祭の最終日です。この仮庵の祭というのは、イスラエルが荒野で過ごした四〇年を記念し、仮庵を作ってその中に住むという祭です。その祭は秋の収穫祭でもありました。その最終日には、シロアムの池から水をくんで、聖所の祭壇の上に注いだと言います。
 シロアムの池の水はギホンの泉から流れ出ていました。その水はエルサレムに住む人々にとってとても大切な水だったはずです。けれども、主イエスはどんな泉にもまさって、わたしのところに来て飲むように、と招かれます。主イエスはまことの泉をもっておられます。飲むとは信じることです。主イエスを信じる人の内からは生ける水が川となって流れ出します。ヨハネは、この川となって流れ出る生ける水を、聖霊のことだと言います。主を信じる者には聖霊の豊かな注ぎが与えられ、自分が渇きをいやされるだけでなく多くの人を潤していくのです。

ヨハネ 7章45〜53節     2013年2月9日

下役どもは答えた、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。(46)

 祭司長たちからイエスを捕らえるようにと命じられて出て行った下役たちですが、手ぶらで帰ってきます。祭司長たちは彼らを問い詰めますが、彼らが答えたのは、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」ということでした。この下役たちは祭司長立ちに仕え、今までも多くの有名な教師たちの教えに触れてきたことでしょう。けれども主イエスのように権威と愛をもって、真実に教える人に、彼らは出会ったことがなかったのです。ある意味、彼らはショックを受け、主イエスを信じて帰ってきたのでした。
 けれどもパリサイ人たちは彼らを叱責します。だまされている、と言います。先生たちの中には誰も主イエスを信じる人などいないではないか、と言うのです。その時、ニコデモが、まるでおずおずと手を上げるかのように口を挟みます。あのー、私はパリサイ人で教師でもあるけれど、信じているのですが、と言うかのようです。学問があってもなくても、大切な事は正直に聞いて、見て、信じることなのです。


礼拝メッセージ
毎週日曜日の
礼拝での
メッセージから


生活の処方箋
日々を楽しく過ごす
ためのヒントが
ここに