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ヨハネ 11章1〜16節     2013年2月22日

するとイエスは、あからさまに彼らに言われた、「ラザロは死んだのだ。そして、わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、あなたがたが信じるようになるためである・・・」。(14〜15)

 ヨルダン川の向こう側におられた主イエスのところにベタニヤ村から使者がやって来ます。マリヤとマルタからです。それは、彼女たちの兄弟ラザロが病気だという知らせでした。主はこのベタニヤ村の姉弟を愛しておられました。しかし、主はすぐに彼らのところに行こうとはされませんでした。
 主イエスがユダヤに行こうと言われたのは二日後のことです。そしてその時、主イエスはラザロは死んだ、とおっしゃいます。まるでラザロが死ぬのを待っておられたかのようです。しかし、それは主イエスが姉弟たちを愛しておられなかったということではありませんでした。
 主はそのことを通してご自身の栄光を表し、また弟子たちがさらに強い信仰に生きることができるようにしようとしておられたのです。自分の思い通りに神が動いて下さらないように思える時にも、どうぞ知ってください。主は意地悪をしておられるのではなく、あなたの生涯に、その栄光をあらわそうとしておられるのです。

ヨハネ 11章17〜27節     2013年2月23日

わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。(25〜26)

 主イエスが来られたと聞いて、マルタが村の外まで主イエスを迎えに出て来ます。そして、主イエスを見るなり、悲しみにあふれて言うのです。「もし、あなたがここにいて下さったら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。遅すぎたのです。けれども、主イエスはマルタに、あなたの兄弟はよみがえります、と語られます。
 そして主は、ご自身を、よみがえりであり、命であると宣言されたのでした。死は私たちの最後の、そして最大の敵です。そして人間は死の前に全く無力に見えます。しかし、主イエスは「わたしを信じる者はたとい死んでも生きる」と宣言なさったのでした。そして、主はマルタに、あなたはこれを信じるかと問いかけられました。主は私たちにも命を与え、死を越えるよみがえりの力を与えようと、私たちの前に立ってくださいます。マルタは「主よ、信じます」とお答えします。マルタがどれだけ分かっていたかはわかりません。しかし、マルタは自分が信じたことがどんなことであったのかこれから知ることになります。

ヨハネ 11章28〜37節     2013年2月24日

イエスは涙を流された。(35)

 主はマリヤをも呼び出されます。マルタに促されるようにして、主イエスの前に立ったマリヤは、マルタと同じことを言います。「主よ、あなたがここにいてくださったら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。そしてマリヤは泣くのでした。イエスは涙を流された、と聖書は言います。主イエスはマルタに対しては、「あなたはこれを信じるか」と信仰を迫られるのですが、マリヤに対しては黙って涙を流されます。主は一人一人の必要をご存じで、その人にあったお取り扱いをしてくださるのです。
 主は、これからご自分が何をしようとしているかよくご存じでした。このあとすぐに、ラザロはよみがえるのです。何も涙を流す必要性はなかったでしょう。しかし、主は私たちの心が痛み、悲しみに満たされる時に、そのこともまた分かって下さいます。主はマリヤの悲しみに寄り添って下さっただけではありません。人をそのような深い悲しみ・嘆きの中に突き落とす、死という現実に対しても深い憤りを覚えられたのです。そして、主は、やがてその死をさえも滅ぼしてくださったのです。

ヨハネ 11章38〜44節     2013年2月25日

イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。(40)

 主はまたマルタに信仰を求められます。お墓の前に置かれていた大きな石のふたを取り除けろ、というのです。マルタは躊躇を感じます。当然です。もう四日もたって臭くなっていることでしょう。しかし、主は言われます。「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。信じるということはただ心の中だけで完結するものではありません。時に信仰は罪の悔い改めを、服従を、献身を求められます。ここでは、信じるということは石を取り除けるという具体的な行動を求められることでもありました。そして、本当に墓の石が取り除けられ、主イエスは天に向かって祈りをささげた後、「ラザロよ、出て来なさい」と呼びかけられます。そして、本当に、死んでいたラザロが布でくるまれたまま出てきたのです。
 主イエスのよみがえりの力がそこに働き、神の栄光があらわされました。しかし、そのためには、「信じる」ということが求められていました。私たちもこのお方を信じ、その御言を信じて歩みたいと思います。 

ヨハネ 11章45〜57節     2013年2月26日

このことは彼が自分から言ったのではない。彼は・・・預言をして、イエスが国民のために、ただ国民のためだけではなく、また散在している神の子らを一つに集めるために、死ぬことになっていると、言ったのである。(51 〜52 )

 主イエスが四日も墓の中にいたラザロを生き返らせたことはそこにいた多くの人たちに衝撃を与えたと共に、口伝えにさらに多くの町々村々に伝わっていきます。エルサレムの宗教指導者たちの耳に入るのにも時間はかかりませんでした。彼らが心配していたのは、主イエスをメシヤとする人々が暴走し、さらなるローマ軍の介入を招くことであり、またローマの支配下にあっても許されていた宗教的な特権が取りあげられ、自分たちの存在が危機に陥ることでした。
 主イエスに対する対応を協議するために開かれた議会の席上で、議長を務める大祭司カヤパは、全国民の救いのためには一人の命が取り去られることはやむを得ない、と発言します。カヤパには主イエスに対する信仰はありませんでした。しかし、彼の発言は図らずも、主イエスの死とその意味を予見させるものとなりました。主イエスは多くの人の救いのために死のうとしておられたのです。


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