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ヨハネ 13章1〜11節 2013年3月4日 |
イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。(8) 十字架の前夜でした。主イエスは弟子たちと一緒に夕食の席に着かれました。主イエスはいよいよ自分の十字架の死が目前に迫り、この食事が十字架の前の最後の食事になるであろうことを自覚しておられました。そして、どうしても今、語っておきたいこと、教えておきたいことをいろいろと思い巡らしておられたことでしょう。主はすでに、ユダが裏切ることも、弟子たちが自分を見捨てて逃げていくことも、自分の十字架の死ということの中で、弟子たちがどんなに不安な時を過ごすかも知っておられました。、そのような中で、主イエスは弟子たちの足を洗い、ご自身の愛を弟子たちに示されました。
ペテロは主イエスに足を洗っていただくことを固辞します。しかし、主は「わたしがあなたの足を洗わないなら、あなたは、わたしと何の関わりもなくなる」とおっしゃいます。主は足よりももっと汚れた私たちの心を洗うということで、私たちと関係をもたれました。私たちと主は、洗ってくださった方と、洗っていただいた者という関係なのです。
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ヨハネ 13章12〜20節 2013年3月5日 |
主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。(14〜15) イエスは主であり、教師でした。けれども、その主であり、教師であるイエスが弟子たちの、そして私たちの足を洗って下さったということはどういうことでしょうか。
私たちは主イエスを信じて救いをいただき、主イエスの弟子となりました。教会はまさに主イエスの弟子たちの集まりです。主イエスを師と仰ぐコミュニティーにおいては、イエスがなさったように生きることが期待されています。そこでは互いに足を洗い合うのです。それはお互いに謙虚になって仕え合うということであり、高慢になったり、責め合ったり、足を引っ張り合ったりするのではなく、お互いの弱さを担い合い、支え合うのです。
主イエスの弟子たちは主イエスの十字架の前夜にも、誰が一番偉いかという議論をしていました。どれだけ注目され、どれだけほめられ。権力を握るかということに心奪われるのではなく、主イエスが示してくださった手本にならうお互いでありたいと思います。
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ヨハネ 13章21〜30節 2013年3月6日 |
この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。そこでイエスは彼に言われた、「しようとしていることを、今すぐするがよい」。(27) 主イエスは「その心が騒ぎ、厳かに」、あなたがたのうちのひとりが私を裏切ろうとしている、とおっしゃいました。もちろん、主イエスは誰が自分を裏切るかを知っておられました。だとしたら、その本人に直接向き合い、縛り上げてでも、ご自分の身を守ることができたはずです。主イエスは自分が一切れの食物をひたして与える人がその人だ、とさえおっしゃいました。主イエスは最後までこのイスカリオテのユダのことを愛しておられました。そして、この最後の夜にも何度も何度も彼に悔い改めるチャンスをくださっています。
主イエスが「しようとしていることをするがよい」とおっしゃった時、他の弟子たちはイエスさまが何を言おうとしたのか分からないでいました。またユダ自身も、おそらく、自分が何をしようとしているのか、まさか主イエスは知っていないだろうと思っていたかもしれません。彼はついに出て行き。その悔い改めのチャンスを無にしてしまったのでした。サタンに心を奪われることのないように目をさましていたいと思います。
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ヨハネ 13章31〜35節 2013年3月7日 |
わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。(34) ユダが外に出て行くのを見送ってから、主イエスは残った弟子たちに新しい戒めを与えてくださいました。それは互いに愛し合いなさい、という戒めでした。この戒めは第一義的には主イエスの弟子たちに対して語られています。私たちは案外、自分から遠いところにいる人を愛する方より、自分のごく身近な人を愛することの方が難しかったりします。「クリスチャンだからゆるせない」という言葉を聞くことがあります。クリスチャン同士が愛し合うことも決して努力や覚悟無しに楽々とできることではありません。そして、教会の中に本当に真実な愛をもって愛し合う交わりがある時に、教会の外にいる人たちは、主イエスを信じて生きるということがどういうことか、また私たちのうちにおられる主イエスとはどのようなお方なのかを知るようになるのです。
ここで、主イエスはます、わたしがあなたがたを愛したようにとおっしゃいます。まず主イエスに愛していただいたから、そして、そこにいるこの人も、主の愛しておられる一人だから、私たちは互いに愛し合うのです。
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ヨハネ 13章36〜38節 2013年3月8日 |
あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう。(36) 「あなたがたは私の行く所に来ることはできない」とおっしゃった主イエスの言葉は弟子たちを深く傷つけます。弟子たちはこの三年間主イエスと寝食を共にしてきたのです。そして、弟子たちとしてはついに、主イエスが覚悟を決めてエルサレムに上り、これからついに歴史が変わり、主イエスが王位につく、そして自分たちも新しい国の中で要職につかせていただけるに違いない・・そんな、思いがあったことでしょう。確かに、主イエスに対しては様々な反対があり、反感やねたみを持つ人たちもいる。弟子たちはそのことも知っていました。けれども主イエスにかなう者はない。
「あなたのためには命も捨てます」と言い切ったペテロの言葉に嘘はなかったでしょう。ペテロだけではありません。すでに弟子たちはみな覚悟を決めていたことでしょう。しかし、この十字架のあがないは誰も手を出すことができませんでした。人間の弱さ、罪深さ、もろさが十字架のところではっきりと見えてくるのです。
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