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ヨハネ 8章1〜11節     2013年2月10日

イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。(11)

 主イエスはまた宮で教えておられました。その時に、律法学者やパリサイ人たちが一人の女性を引っ張ってきてみんなの集まっている前にさらしものにします。「この女は姦淫の現場でつかまえられました。律法によれば石で打ち殺すことになっていますが、どうしますか」と言うのです。罠です。もし、主イエスが石で打ち殺せと命じられたら、ユダヤ人が死刑を行うことを禁じているローマに対する反逆であり、もし、石で打ち殺すなと言えば、律法に背く者として訴えることができるからです。
 けれども、主イエスは、罪のない者がまずこの女に石を投げつけるように、とおっしゃいました。すると年寄りから順に、人々はそこから立ち去っていったのでした。主イエスは彼女に、「私もあなたを罰しない」と赦しを宣言してくださったのでした。もちろん、主イエスが彼女のしたことを許容されたというわけではありません。主は、今後はもう罪を犯さないように、と彼女を去らせられたのでした。主は、彼女の罪も、私たちの罪も負って十字架で死んでくださったのです。 

ヨハネ 8章12〜20節     2013年2月11日

イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。(12)

 主は「私は世の光である」と語られました。姦淫の女の事件でも明らかになってきたのは、人間の罪深さです。姦淫の現場で捕まえられた女の罪、そして彼女を引っ張ってきて、自分たちのために利用して主イエスを陥れようとした宗教家たちの罪、またそこを立ち去っていってひとりひとりの罪。そこには幾重にも重なった深い闇があります。けれども、罪のないお方、光なるお方として、主イエスがそこにおられます。主イエスは単にご自身が光なるお方であるだけではありません。主イエスのところに来る人を光の下に引き出し、命の光を与えて下さるのです。
 姦淫の女が連れてこられた時、「罪のない者が」と主イエスに言われて、自分にも罪があるとひとりひとりが認めざるを得なかったように、光なる主イエスの前に出ると私たちは自分の罪深さに気づかされます。けれども、大切な事は、光なる主イエスに憐れみを求めてそこにとどまることなのです。

ヨハネ 8章21〜30節     2013年2月12日

そこでイエスは言われた、「あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること、また、わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。(28)

 主イエスは真剣に真実を語っておられるのですが、主イエスのことを信じようとしない人たちには、主イエスのおっしゃる言葉がどうしても通じません。議論はどこまでもすれ違っています。主イエスはそれでも語らずにはいられません。それは罪をそのままにしていたら死ぬからです。それは単に肉体の問題だけではなく、神から引き離され捨てられてしまうという霊的な死をも意味しています。けれども、人々は自分が罪がないとは言わないまでも、自分の罪がそれほどに深刻で恐ろしいものであるという認識をもっていません。
 そのような中で、主イエスを信じない人々は、やがて神から遣わされた、神のひとり子イエスを木にかけて上げ、さらしものにします。人間の罪とはそこまで深刻で恐ろしいのです。
 大切な事はこの神から遣わされた救い主を信じて、死から命に移していただくことです。主イエスはそのために来てくださったからです。

ヨハネ 8章31〜47節     2013年2月13日

もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。(36)

「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」と言う言葉は国会図書館の二階カウンターの上にもギリシャ語でそのまま刻まれています。ただ聖書では、この「真理」は主イエスの言葉にとどまり、主イエスの弟子として生きる者が知ることができるものとされています。
 「自由にする」と言われて、ユダヤ人たちはいらいらします。では今は自由ではない、というのか、というのです。主イエスははっきり言われます。罪を犯す者は罪の奴隷だ。この「自由」というのは、罪からの自由です。もちろん、私たちは人間として、この地上を歩んでいる中で罪を犯す可能性が亡くなってしまうわけではありません。けれども、主イエスは私たちが、罪の力から自由にされて、神の御旨の中を生きることができるようにしてくださるのです。
 この自由を与えるために、主はこの世に来てくださいました。私たちは喜びと感謝をもってこの救い主を受け入れたいと思います。

ヨハネ 8章48〜59節     2013年2月14日

あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ。(56)

 主イエスは、「私の言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることはない」とおっしゃいます。するとご自身の言葉にそこまでの権威と力と命とを宣言される主イエスに対して、ユダヤ人たちはまた反発を強めます。この人は自分が旧約聖書に出てくるアブラハムや他の預言者たちよりも偉大な者だと思っているのだろうか、と言うのです。
 主イエスは彼らに対して答えていく中で、神は自分の父だと明言され、「アブラハムが生まれる前からわたしは、いるのである」と宣言されます。この「わたしはいる」という言葉はギリシャ語の「エゴー・エイミ」という表現で、これはヘブル語に訳した時にはまさに神ご自身の自己顕現をも表す特別な表現だとされています。人々がイエスに石を投げつけようとしていたのにはそのような事情があります。主イエスはご自分を神とされたのです。そして、アブラハムに与えられた祝福の約束、それはまさに、この主イエスがこの地上に来られたことによって実現しようとしていました。


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