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ヨハネ 16章1〜11節     2013年3月19日

わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。(7)

 主イエスは弟子たちに対して、やがて迫害の時代が来ることを予告しておられました。人々が主イエスを信じる者たちを迫害することこそが神に仕える道だと思う時が来る。それはちょうど、人々が、自分を神の子だと言っているとして、主イエスを十字架につけてしまったのと同じです。そしてヨハネがこの福音書を書いている時代にも教会はそのような迫害の中を通っていたことでしょう。しかし、そのような中で弟子たちも、そして後の教会も主イエスの御言を思い起こすのです。
 主イエスは十字架・復活を経て父の御許に帰って行かなければなりませんでした。新しい時代が来ようとしていました。聖霊の時代・教会の時代です。主イエスが聖霊を送って下さったことによって、いつでもどこでも、主はすべて信じる者と共にいてくださるのです。そして、このお方は人々の目を、罪について義についてさばきについて開いて下さり、救いを求めることができるようにして下さるのです。

ヨハネ 16章12〜15節     2013年3月20日

真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。(13)

 十字架を前にして主イエスは弟子たちに多くのことを語り、また教えられました。けれども同時に、主イエスは弟子たちが一番大切なことは理解できないだろうということも知っておられました。主イエスが十字架にかかって死ぬということも、それが自分の罪の贖いのためであるということも、弟子たちには受け入れられなかったのです。
 けれども同時に、主イエスは、やがて真理の御霊が来られる時には、弟子たちが真理に導かれて行くことを知っておられました。聖霊は私たちに罪を示して認罪を与え、主イエスを指し示して、十字架にかかって死んでくださったこのお方にこそ救い主であることを悟らせて、私たちを信仰に導いてくださいます。
 学問を積むことによって、自分自身が見えるようになり、神を認めることができるようになるかというと、そうではありません。神の恵みにより、聖霊の働きによってそのことが私たちのうちに起こるのです。

ヨハネ 16章16〜24節     2013年3月21日

このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。(22)

 主イエスは十字架の道をただひとり進んで行こうとしておられました。そして主イエスは弟子たちの前から姿を消します。主イエスは十字架で死のうとしておられました。そして主イエスの行く道に誰もついてくることはできませんでした。そして、主イエスの十字架の死は弟子たちに大きな不安と深い悲しみをもたらしました。
 けれども、主は十字架の死を前にして弟子たちに約束されます。「またしばらくすればわたしに会える」。今の苦しみ・不安は出産を前にした女性のようなものだ。出産が苦しみを伴ったとしても、その苦しみ・不安は忘れられてしまう。それはそこに大きな喜びがあるからです。
 主はそのあがないを全うしてよみがえられます。そして、そのことは私たちに大きな喜びをもたらします。私たちは自分を責め、罪を嘆くことから、主の与えて下さるゆるしと祝福に生きる世界へと移されるからです、

ヨハネ 16章25〜28節     2013年3月22日

その日には、あなたがたは、わたしの名によって求めるであろう。わたしは、あなたがたのために父に願ってあげようとは言うまい。父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである。(26〜27)

 主は復活後、父のみもとに昇って行かれました。・けれども、主イエスを信じる者たちは不安に打ちひしがれる必要はありません。主は聖霊を遣わして、私たちといつもともにおらせてくださいますし、また私たちが主イエスの御名によって祈ることを許していてくださるからです。父なる神の前に祈る時に、主イエスのお名前を出してよい、いいえ、それ以上に、そうすべきなのです。
 私たちは、主イエスの成し遂げてくださった贖いの御業に信頼して大胆に主に近づいて求めることができます。それは父なる神ご自身が私たちを愛し、私たちの祈りを待っていてくださるからです。
 主のあがないにあずかり、その恵みに生かされているお互いは、主の御心を知らされて、神の御心にかなう祈りをささげることができます。不十分なところはまた御霊が教えてくださるでしょう。神の右に座しておられる主イエスに信頼し、喜びをもって祈りたいと思います。

ヨハネ 16章29〜33節     2013年3月23日

あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。(33)

 弟子たちも主イエスが神から遣わされたお方、救い主、キリストであることを信じていました。けれども、彼らの理解はなお不十分であり、またゆがんでいました。実際、主イエスが十字架に向かって行かれる時、弟子たちは散らされて、主イエスだけを残して逃げてしまいました。
 主イエスがそのことを事前に話しておかれたのは、彼らが主イエスを思い起こし、主イエスの語られた言葉を思い起こすためでした。
 そして、主は弟子たちにおっしゃいます。「あなたがたはこの世では悩みがある」。私たちが主イエスを信じて歩んでいても、この地上の歩みにおいてはなお悩みがあり、不安があることでしょう。「しかし」、そう、主イエスは宣言なさいます。「勇気を出しなさい」。それは、私たちが地上を歩む中で向き合う悩みがどんなに厳しいものであっても、主イエスはすでに世に勝ってくださったからです。 


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