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ヨハネ 3章1〜8節     2013年1月11日

イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。(3)

 主イエスのところに夜、一人の客がやってきました。驚いたことに、パリサイ派のユダヤ人で、サンヒドリン議会の議員でもあったニコデモです。ニコデモは自分の立場もあり、昼間は主イエスに近づけなかったのかもしれません。けれども、ニコデモはどうしても主イエスに聞きたいことがありました。主イエスもそのことをご存じだったのでしょう。ニコデモが質問する前に、ずばりと本質的な教えをされます。誰でも新しく生まれなければ神の国を見ることはできない。その時にニコデモは、今、主イエスが語られたことはつまり、今の自分はこのままでは神の国を見ることはできないのだと悟り、認めたのでした。新しく生まれるとはお母さんのお腹に入って生まれ直すことではありません。水と霊から、つまり、水の働きをする霊によって、神によって生まれなければ、神の国を見ることはできないのです。神が私たちを新しく生まれさせてくださるのです。

ヨハネ 3章9〜15節     2013年1月12日

そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。(14〜15)

 「モーセが荒野でへびを上げたように」とは、民数記二一章の出来事を指しています。イスラエルの民が荒野を歩んでいた時に、そこで不平を言い、神を侮った民に対して、火の蛇が出てきて民をかみ多くの人々がその毒で死ぬということが起こりました。民が悔い改めた時に、神はモーセに青銅でへびを作りそれをさおの上に掛けて置くようにと命じられます。そしてその青銅のへびを仰いで見た者は、へびにかまれても死なないで済んだのでした。
 それと同じように、主イエスは十字架の上に上げられようとしていました。そして十字架に上げられた主イエスを仰ぐ者は救われるのです。罪のために滅びに定められていた私たちが赦され、命を与えられる道が、主イエスによって開かれようとしていました。新しく生まれるとはまさにこの十字架の主イエスを仰ぐことによって起こるのです。

ヨハネ 3章16〜21節     2013年1月13日

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(16)

 私たちは自分の犯した罪のゆえに神に裁かれるべき存在でした。そして裁かれたら当然、私たちは滅びの宣告を受けるしかなかったのです。それはまことの光である神を拒み、やみの中を歩んでいたからです。けれども、そのような滅ぶべき私たちが救われて、永遠の命を与えられるというすばらしい道が開かれました。
 その救いの道を開くために、神はその尊いひとり子を差し出してくださったのです。そして、神のひとり子、主イエス・キリストは十字架の上で私たちの罪の身代わりとして死んででくださいました。神はなぜ私たちのためにそこまでしてくださったのでしょうか。神が罪深く、滅ぶべきこの私を愛してくださったからです。
 私たちに必要なのはただ信じることだけです。救いに必要なすべてのことは神がしてくださいました。そして信じる者はひとりも滅びることはありません。信じたら百パーセント救われるのです。

ヨハネ 3章22〜30節     2013年1月14日

花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。彼は必ず栄え、わたしは衰える。(29〜30)

 バプテスマのヨハネがヨルダン川で人々に悔い改めを勧め、バプテスマを授けていた時、主イエスがあらわれ、弟子たちを集め、バプテスマを授け始められます。ヨハネの弟子たちはそのことが気になってきます。しかし、ヨハネはそのことを冷静に受け止めます。決してひがんだり、うらやんだり、ねたんだりしません。彼は自分の使命を知っており、また主イエスがどのようなお方であるか知っていただからです。
 ですからヨハネは、主イエスを花婿、自分を花婿の友人として、ここでスポットライトを浴びるのは主イエスであり、自分ではない、それでいいのだし、花婿の喜びが自分にとってのなによりの喜びなのだ、と言うのです。そしてさらにヨハネは、「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と言います。この言葉は決してひがみから出たものではありません。主イエスを紹介でき、人々が主イエスを信じ、受け入れてくれれば、それでヨハネの使命は全うされたことになり、それこそがヨハネが願っていたことだったのです。

ヨハネ 3章31〜36節     2013年1月15日

神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。(34)

 「神がおつかわしになったかた」とは主イエスのことです。神は主イエスを遣わし、聖霊を限りなく注ぎ、神のことばを語らせられました。まさに、主イエスは神のことばそのものだったと言うこともできます。主イエスはその言葉によって、またその生きた歩みを通して神を指し示されたからです。そしてこの方の言葉を受け入れ、信じ、従う者は永遠の命を持ちます、しかし御子の語ることに耳をかそうとしない人は神の怒りの下に置かれるのです。
 そして、神がつかわされた方とは、私たちのところに神の御心を伝えてくれるメッセンジャーたちをも指しています。まさにバプテスマのヨハネも上から遣わされて神の言葉を語った一人でした。私たちは神の遣わされるメッセンジャーのために祈り、また神からのメッセージをしっかり受け止める必要があります。
 また、同時に、私たち自身も御霊に満たされて、それぞれの置かれているところで、神の言葉を伝え、また見せる器として生かされていくのです。


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