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ヨハネ 5章1〜9節 2013年1月22日 |
イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。(6) 神殿の北側にベテスダという池がありました。ベテスダとは「あわれみの家」という意味です。その池を囲むように五つの回廊がありました。そしてその回廊には多くの病人たちがらだを横たえていました。彼らは池の水を見つめています。池の水が動いた時に真っ先に池に入る人は病気がなおると言われていたからです。
主イエスはある日、その池のそばを歩き、一人の病人に目をとめられました。彼は三八年間も病で苦しんでいました。主イエスはこの人に、「なおりたいのか」とおっしゃいました。当然でしょう。言うまでもないことです。だからそこにいたのです。けれども、主イエスは、彼の口から信仰を引き出したいと思われたのでしょう。病の中にあって長く苦しんでいると、もう癒される希望も期待も信仰も祈りも失ってしまいかねないからです。彼の答えはある意味、信仰とはほど遠いように思えます。しかし主イエスはそこに、どうしてもなおりたいという彼の思いをくみ取ってくださったのです。
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ヨハネ 5章10〜18節 2013年1月23日 |
そののち、イエスは宮でその人に出会ったので、彼に言われた、「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」。(14) 主イエスはこの三七年間病気に苦しんでいた人をいやしてくださいました。どんなにうれしかったことでしょう。しかし、床を取り上げて歩いて行ったこの男にユダヤ人たちはクレームをつけます。安息日に床を取り上げ、それを運ぶというのは、安息日には仕事をしないという律法に違反する恐れがある、というのです。
けれども主イエスは神は安息日にも働いておられるのだから、子である自分も働くのだ、とおっしゃっいました。ユダヤ人たちは律法をとても表面的にとらえ、律法を与えられた神の意図や思いを知ろうとしなかったのです。
主イエスは再び、癒された男の前にご自身をあらわされます。そして、もう罪を犯してはいけない、とおっしゃいました。もちろんすべての病が罪の結果だとは思いません。しかし、このことを語られた時に、癒されたこの男にも思い当たるふしがあったのでしょう。主イエスは体が健康になるだけでなく彼の魂や永遠を心配なさったのです。
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ヨハネ 5章19〜29節 2013年1月24日 |
よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。(25) ベテスダの池で安息日に、病気で苦しむ人に「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と命じ、彼をいやしたのがイエスだと知ったユダヤ人たちは、主イエスを激しく非難します。しかし、主は、自分は父がなさっていることをしているだけだとおっしゃり、自分は罪の中に死んでいる人に命を与えるために来たのだと語られます。死んでいる人がどうして神の声を聞くことができるでしょうか。そこには全く望みがありません。けれども主が語られる神の言葉を死んだ者たちが聞き、そして死んだはずの人たちが起きるのです。私たちも神の言葉を聞いて、生きる者とされました。永遠の命を与えられ、死から命に移されたのです。
もちろん、私たちは主を信じて永遠の命を与えられていても、やがて地上の生涯を終えていきます。しかし、私たちが死んで葬られてからも、やがてまた主の声を聞く時が来ます。主はすべての人を裁くために再び来られます。私たちは生命を受けるためによみがえるのです。
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ヨハネ 5章30〜59節 2013年1月25日 |
あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。(39) イエスが神から遣わされた救い主であることは、バプテスマのヨハネが証ししていました。また主イエスがしておられる奇跡と不思議をそのまま素直に見れば、主イエスが救い主であることは否定しようのないことでした。それだけではありません。聖書を読んでいると、聖書の御言もまた主イエスが救い主であることを証ししているのです。
ユダヤ人たちはよく聖書を読み、学んでいました。記憶し頭に入れていたことでしょう。そして彼らは聖書を通して、永遠の命を得る道を見いだそうとしていました。モーセはまさに旧約聖書の中心と考えられていた「モーセ五書」(律法)を書いた人物です。つまり、永遠の命を得るためにしなければならないことを学び、その通りに生きようと務めました。けれども聖書は、生きるための指針を与えていると言うよりもむしろ、主イエスを指し示し、主イエスを信じ、受け入れるようにと私たちを導くのです。
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