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マタイ 28章1〜15節 2019年1月18日 |
恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。(5〜6) 安息日は金曜日の日没から土曜日の日没までです。主イエスが十字架につけられた金曜日、日没とともに安息日が始まってしまいますので、人々はその葬りを慌ただしくすませたことでしょう。安息日の間は仕事はできませんが、土曜日に日が沈んで安息日が終わって、次の日、日曜日の朝に、主イエスを慕っていた女たちが主イエスの墓に急いでいました。しかし、墓に着いた時、すでに墓の石は取りのけられていて、石の上には御使いが座っていました。
御使いは主イエスはもう墓におられない、よみがえられたのだからと女たちに告げ、そのことを弟子たちに伝えるようにと言いました。そして、女たちが弟子たちのところに向かっていると、主イエスご自身が彼らに出会ってくださったのでした。主イエスはよみがえって今も生きておられます。私たちはこのよみがえりの主を見つめ、喜びをもって歩むお互いでありたいと思います。
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マタイ 28章16〜20節 2019年1月19日 |
見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。(18〜20) 主イエスはガリラヤで弟子たちと会われます。ヨハネによる福音書を読むと、弟子たちはすでにエルサレムにいる間に復活の主イエスにお会いしています。それでも、ここで「疑う者もいた」とあるのは聖書がとても正直に語っている証拠でもあります。
主イエスは弟子たちに、自分が一切の権威を持っていることを示し、弟子たちに宣教を命じられます。ここで、主イエスは「行って」「弟子として」「バプテスマを施し」「教えよ」と命じられます。ただ、ここで文法的に命令形が用いられているのは「弟子としなさい」というその部分だけです。後の部分は皆、「弟子とする」ということにつながっているのです。私たちが主イエスを信じて信仰者として生きるということは、主イエスの弟子となるということです。私たちは主イエスの弟子となり、弟子を生み出し、育てて行くようにと招かれているのです。そして主はそのような私たちを決して捨てられることはありません。
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