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マタイ 20章1〜16節 2018年12月11日 |
わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。(14) ぶどう園の労働者のたとえと言われるたとえです。ある主人が夜明けと、九時と十二時と午後三時と五時に市場に行って労働者を雇います。一日の初めから仕事をしていた人には一日一デナリの約束をしていましたが、あとの人たちとは給料の約束はしていません。一日の終わりに主人は夕方五時に雇った者たちから始めて、朝から仕事に就いた者たちまで給料を支払います。主人が支払ったのは皆同じ1デナリでした。朝から仕事をした人たちはそれに対して文句を言いますが、主人は「この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ」と答えたのでした。
この話を聞くと、私たちはやはり朝から仕事をしていた人たちの言うことももっともだなあと感じたりします。この話は五時から仕事をして一デナリ受け取った人に自分を重ねない限り、理解できません。これは「天国」のたとえです。天国はまさに受け取る資格の無いものが恵みによっていただく世界なのです。
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マタイ 20章17〜28節 2018年12月12日 |
それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。(28) 主イエスはエルサレムに近づいておられました。もちろん主イエスがエルサレムに上られるのはこれが初めてではありません。しかし、この時のエルサレム上りは特別でした。主イエスは十字架で私たちの罪を負って、身代わりに死ぬためにエルサレムに向かっておられたのです。主イエスが受難の予告をされたのは、マタイによる福音書の中ではすでに4回目です。しかし、弟子たちには主イエスがしようとしておられることがまるで分かっていませんでした。
ゼベダイの子らとは、ヤコブとヨハネのことです。彼らの母親が主イエスのもとに来て、自分の息子たちのために特別な待遇を求めます。彼らは高い地位、偉くなること、人々の上に権力を振るうことを求めていました。しかし、主イエスの生き方は違いました。主イエスはしもべとなって仕え、自分の命までも与えようとこの世に来られました。そして、主イエスは御自分の弟子たちにも同じ生き方を求めておられるのです。
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マタイ 20章29〜34節 2018年12月13日 |
イエスは立ちどまり、彼らを呼んで言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。彼らは言った、「主よ、目をあけていただくことです」。(32〜33) エリコの町を出たとき、大勢の群衆が主イエスについてきました。けれども道ばたに座っていた二人の盲人たちは、主イエスが通られると聞いた時に、大声で叫んで、主イエスにあわれみを求めました。そして、人々が黙らせようとすると、ますます大声で主に叫んだのでした。主イエスは彼らの叫びを聞いて立ち止まり、彼らを呼ぶようにとおっしゃいます。そして主イエスのところに来た彼らに、主は問われます。「わたしに何をしてほしいのか」。それはゼベダイの子らの母に問われたのと同じ問いです。この盲人たちは、「主よ、目をあけていただくことです」と答えます。彼らは主イエスにその力があることを知っていました。そして主イエスは彼らの信仰の求めに答えてくださったのです。主イエスの癒しを経験して彼らの生涯は全く変わりました。単に目が見るようになったというだけでなく、主イエスについていき、従う生涯が始まったのです。
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