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マタイ 22章1〜14節 2018年12月20日 |
町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい。(9) 主イエスは王の婚宴のたとえを語られました。ここで王とは神さまのこと、婚宴に招かれていたのに出席を断って婚宴に行こうとしなかったのは、神の恵みを知らされていたイスラエル人たちであり、また宗教家たちを指していたのでしょう。しかし、彼らは王の婚宴に出席することを拒みます。その結果、王は招待客たちを処罰し、手当たり次第に婚宴に人々を招くようにと命じます。すべての人が招かれていました。ただし、その婚宴に参加するためには一つだけ条件がありました。それは礼服を身につけるということでした。もちろん、王子の結婚式に参列するのにふさわしい装いをするのは決してやさしいことではありませんから、衣服はみな王が用意したはずです。しかし、一人だけ用意されていた礼服を着ていない人がいました。彼は婚宴の席から追い出されてしまったのでした。
すべての人が天国の婚宴に招かれています。しかし、そこに参加するためには主が備えてくださった救いの衣を着なければならないのです。
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マタイ 22章15〜22節 2018年12月21日 |
カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。(21) パリサイ人たちは、主イエスを言葉のわなにかけようとしていました。「カイザルに税を納めて良いかどうか」その問いは、主イエスを追い詰めるために彼らが用意したわなでした。主イエスがカイザルに税を納めてはいけないとおっしゃったら、ローマ皇帝に反逆する者として訴えることができます。ローマに税を納めるようにとおっしゃったら、主イエスが救い主だという人々の期待は急激にしぼんでしまうことでしょう。主イエスがどうお答えになっても、主イエスが窮地に立つように仕組まれた悪意に満ちたわなでした。
主イエスは彼らにその貨幣を持ってこさせます。そこにはローマ皇帝の肖像が鋳造されていました。主イエスは「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」とおっしゃって彼らを退けられたのでした。
私たちはこの世にあって、自分に与えられたことを果たしていく責任があります。ただ私たちが一番に負っているのは神に対する責任です。神の期待に添った歩みをさせていただきたいと思います。
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マタイ 22章23〜33節 2018年12月22日 |
また、死人の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。(31〜32) サドカイ人とは、レビ人や祭司たちを中心とする一派で、神殿礼拝のサポートをその仕事としていました。彼らは、現状に満足し、変化を嫌い、復活だとか天使だとかは信じていませんでした。その意味ではサドカイ人とパリサイ人は全く違った考え方を持っていたと言えます。そんなサドカイ人たちが、主イエスをやり込めてやろうととっておきの問題をもってやって来ました。モーセの律法には、ある人が子がなくして死んだなら、その人の兄弟はその兄の妻であった未亡人と結婚して、兄の名を継ぐ子を残さなければならないという仕組みがありました。でももし復活や死後の世界があるとしたら、その女は復活の時に誰の妻になるのかというのです。
主イエスは、復活の時には、天使のようで、結婚とか夫婦ということはないのだとおっしゃり、また「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と、神が過去の事実ではなく現在のこととして語っておられることを指摘して、この地上の生涯を終わっても、私たちは存在を止めてしまうのではないと語られたのでした。
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マタイ 22章34〜40節 2018年12月23日 |
『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。(37〜39) パリサイ人たちがまた集まって、主イエスを試そうとして「律法の中でどの戒めがいちばん大切ですか」と尋ねました。この時代の宗教家たちは、律法を破らないということに必死になり、律法の精神を忘れて、規則集のような扱いをしていました。また多くの細則を作って、律法を守ろうとしていました。ただ、大切なのは律法の土台になる神の思いであり、神の恵みに対する感謝と応答でした。ですから主イエスは一番大事なのは、神を愛すること、とおっしゃいます。そして二番目は隣り人を愛することです。そしてこれらこそが旧約聖書(律法と預言者)の教えていることでした。
表面的に、形だけ、主に従うということであってはなりません。主は私たちを愛してくださって、私たちにも愛を求めておられます。そして愛するとは中途半端ではいけません。それは心も精神も思いも、全部を求めるものなのです。
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マタイ 22章41〜46節 2018年12月24日 |
ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか。(45) イスラエルの人たちは皆、救い主を待っていました。この救い主のことをキリスト(ヘブル語ではメシヤ)と言いました。これは「油注がれた者」という意味の言葉ですが、神から特別に召されて、大切な仕事につく王や預言者・祭司などを指していたのですが、神から特別に立てられた救い主を指す言葉になっていました。その当時の人々はキリストはダビデの子としておいでになると信じていました。それは神がダビデに、あなたの子孫が代々王になると告げておられたからです。ですからパリサイ人たちは「キリストはダビデの子」と答えました。ただ主イエスは詩篇一一〇篇を引用して、その詩篇の中で、「主(神)はわが主(キリスト)に仰せになった」と、ダビデがキリストのことを「わが主」と呼んでいると指摘して、キリストは単なるダビデの子ではないのだと語られます。まさに主イエスは神のひとり子、神であられたのに人になってこの世に来てくださいました。神ご自身がキリストとしてこの世に来てくださったのです。
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