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マタイ 27章1〜10節 2019年1月13日 |
「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。(4〜5) 主イエスを神に対する「冒?罪」で死刑宣告した祭司長たちは実際に、主イエスを死刑にするために、イエスさまを縛ってローマの総督ピラトに引き渡しました。この時代、ローマの支配下にあったユダヤでは死刑の権限を与えられていなかったからです。主イエスが総督ピラトに送られたということは、主イエスが死刑にされようとしているということです。
イスカリオテのユダもことの重大さに気づきます。彼は自分のしてしまったことを後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちに返そうとします。しかし、彼らは「それは、われわれの知ったことか。自分で始末をするがよい」とユダを突き放したのでした。そしてまさに、ユダは自分で始末をしようとしました。彼は首をつって死んでしまいます。ユダの罪が、他の弟子たちや私たちの罪よりも重いとは思いません。ただ彼が神にすがることをやめ、自分の罪を自分で始末しようとしたことに最大の罪があったのです。
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マタイ 27章11〜26節 2019年1月14日 |
しかし、祭司長、長老たちが訴えている間、イエスはひと言もお答えにならなかった。・・・しかし、総督が非常に不思議に思ったほどに、イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった。(13〜15) 主イエスが「ひと言もお答えにならなかった」という言葉が繰り返されています。人は自分について言われのない非難をされたとき、激怒し、自分の正当性を主張するものです。主イエスは自分の無実を証明し、自分がどんなに正しく、聖なる者であるかを主張し、また祭司長・律法学者たちの訴えの不当性と欺瞞を説明することなどわけはなかったと思います。しかし、主イエスはそのことを一切なさいませんでした。かえって不思議なほど沈黙しておられたのです。このマタイの叙述はイザヤ書五三章7節にある受難のしもべとしてのメシヤが「口を開かなかった」という言葉が繰り返されていることとも合致しています。
ピラトにも主イエスに罪がないことは分かっていました。しかし、彼は自分の責任を放棄し、主イエスを「十字架につけろ」と叫ぶ群衆に屈しました。ただ主イエスは、悲劇のヒーローではありません。主イエスはここで自ら十字架の道を進んで行かれたのです。
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マタイ 27章27〜44節 2019年1月15日 |
彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた。(32) 主イエスの罪状ですが、ユダヤ人による宗教会議においては冒?罪で死刑でしたが、ピラトによるローマの裁判では、(ローマの法律にユダヤ教の神に対する冒?罪というものはありませんでしたから)表向きは自分を王としたという「反逆罪」で死刑ということになりました。主イエスの罪状書きに「ユダヤ人の王」と書かれていたり、兵士たちが主イエスにいばらの冠をかぶらせて、「ユダヤ人の王ばんざい」とばかにしたのはそのせいです。
イエスの十字架のところを通りかかった人たちは、「自分を救え、十字架から下りてこい」とあざけりました。祭司長たちも言いました。「いま十字架から下りてみよ。そうしたら信じよう」。十字架を止める・・・というのは主イエスの公生涯の中で何度も繰り返された誘惑でした。主イエスも十字架からおりようと思えば、おりることができたでしょう。しかし、主イエスはそれをなさいませんでした。十字架の下で主イエスをあざける人々のゆるしのために主イエスは十字架の苦しみを担ってくださったのです。
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マタイ 27章45〜56節 2019年1月16日 |
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(46) 主イエスがの十字架上の叫びはゴルゴダの丘に響いたことでしょう。福音書の記者はギリシャ語でイエスさまの教えとその生涯を書き記しながらも、この主イエスの叫びをそのまま主イエスの発せられた言語で書き残しています。これは詩篇二二篇の言葉でもあります。主イエスは十字架上の苦しみを詩篇と重ねられたのでしょう。
主イエスは罪のないお方、神との親しい交わりの中に歩んでこられたお方です。しかし、このところで主イエスが私たちの罪を身代わりに負われたとき、天の神は主イエスを見捨てられたのです。まさに十字架の苦しみの極地でした。
主イエスが息を引き取られたとき、神殿の聖所と至聖所を隔てる幕が上から下まで真っ二つに裂けました。それはまさに主イエスの十字架の贖いの死によって、誰でもが神に近づくことができるようになったというしるしでした。
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マタイ 27章57〜65節 2019年1月17日 |
夕方になってから、アリマタヤの金持で、ヨセフという名の人がきた。彼もまたイエスの弟子であった。この人がピラトの所へ行って、イエスのからだの引取りかたを願った。(57〜58) 主イエスが息を引き取られたとき、アリマタヤ出身のヨセフが総督ピラトのもとを訪ねます。ヨセフは金持ちであり、また身分の高い議員のひとりでした。そして彼はイエスの弟子でした。ヨセフがどのようにして主を信じる者になったかは分かりません。しかし、彼はニコデモと共に、宗教議会の構成メンバーでありながら、主イエスの弟子となったのでした。彼がピラトのところに行って、主イエスの遺体の引き取り方を願い出たとき、彼はまさに自分が主イエスの弟子であり、主イエスを愛する者であることを公にしたのでした。そして、彼は自分が持っていた新しい墓をささげて、そこに主イエスを葬りました。彼はまさに自分にできることをしたのです。
主イエスの墓には、誰もそこを開くことがないように封印がされ、番兵がその墓を見張っていました。祭司長たちは主イエスがよみがえると言っておられた言葉を覚えていました。ただ彼らは、主イエスの言葉を信じてはいませんでした。
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