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マタイ 11章1〜15節 2018年11月3日 |
あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。(11) バプテスマのヨハネは領主ヘロデの罪を指摘したために捕らえられて獄中にいました。ヨハネはその囚われの中で、主イエスのうわさを聞きます。それには主イエスのすばらしい教えや御業について、また多くの人たちが主イエスについていっていることなども含まれていたことでしょう。ただ同時に、主イエスに対する多くの反対者たちの批判中傷なども耳に入ってきたはずです。ヨハネは不安になり、主イエスのもとに自分の弟子を遣わして、「『きたるべき方』はあなたなのですか」と問わせたのでした。主イエスは旧約聖書の中に救い主メシヤについて書かれている通りのことが今、起こっていることを示して、ご自身が約束されたメシヤであることを証しされたのでした。
ヨハネは確かに偉大な人物でした。しかし、主イエスが来られたことによって新しい時代が始まりました。私たちはまさにこの新しい時代に、主イエスの十字架を知っているものとして立っているのです。
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マタイ 11章16〜19節 2018年11月4日 |
また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。(19) 主イエスは、ご自身の立っている時代が、主を受け入れようとしないことを悲しまれました。ヨハネが来ても、主イエスが来られても、いろいろと難癖をつけて、ヨハネや主イエスを、そしてヨハネや主イエスを遣わされた天の父を受け入れようとしなかったのです。ヨハネはある意味、とても禁欲的な生き方をしました。すると人々は彼のことを悪霊につかれていると悪口を言い、主イエスが飲食を楽しんでおられる様子を見て、食をむさぼる者、大酒飲み、取税人・罪人の仲間とこき下ろしました。要は、主イエスがどのような生き方をしておられても、信じない者は主イエスを拒み、悪口を言ったのです。
しかし、主イエスは「取税人、罪人の仲間」という非難をあえて受けられました。主イエスは人の前にも神の前にも正しく生きておられましたし、また本当に罪人の友となって、彼らを救いに導くことを自らの使命としておられたからです。この主イエスの愛のゆえに私たちも救われたのです。
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マタイ 11章20〜24節 2018年11月5日 |
それからイエスは、数々の力あるわざがなされたのに、悔い改めることをしなかった町々を、責めはじめられた。(20) コラ、コラジン、カペナウムは主イエスがその公生涯において何度も訪ねられたガリラヤ湖に近い町々でした。それらの町々の人たちは何度も主イエスの話を聞く機会があったことでしょう。また主イエスの奇跡を見、また主イエスの奇跡を経験した人から直接話を聞くこともあったはずです。けれども、彼らは悔い改めて、救い主である主イエスにすがろうとはしませんでした。不思議な事は見たいと願っていましたし、主イエスの話を聞くのも楽しみでした。けれども、そこで語られたメッセージを自分に語られている神の言葉として信じることなく、悔い改めることも、救い主なる主イエスにすがることもなかったのでした。
主イエスの時代、すでにツロやシドン、ソドムは神の裁きを受けて滅び、廃墟になっていました。主イエスはそういった町々よりも厳しい裁きが臨もうとしていると警告を発せられます。私たちもすばらしい福音を聞きました。すばらしい御言葉を与えられています。素直に悔い改めて、喜びをもって主を仰ぐ者たちでありたいと思います。
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マタイ 11章25〜27節 2018年11月6日 |
天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。(25) 神の子として人になってこの世に来てくださった主イエスが神の恵みを語り、またその力あるわざを見せてくださったのに、信じることも悔い改めることもなかった人たちが大勢いる中で、主イエスを素直に受け入れた幼な子たちのために主は祝福を祈られます。
神様のことはどんなに人間的に熱心に勉強したとしても、またどんなにIQが高かったとしても、また人生経験が豊かだったとしてもそれらの人間の力や知恵に頼っていたら分かりません。かえって神様が分かるのは小さな幼な子のように、神様の御腕の中に信頼して飛び込む人です。ですから私たちは神について多くのことを幼な子から学びことができるでしょう。
神を知るというのはまさに神が与えてくださる大きな恵みです。主が私たちを選び、私たちにご自身を明らかにしてくださったことによって私たちは神を知ることができるのです。
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マタイ 11章28〜30節 2018年11月7日 |
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。・・・わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 (28〜29) 主イエスは重荷を負って苦労し、疲れている者たちを招いてくださっています。主は私たちに休みを与えてくださいます。ただここで「休み」というのは何もしなくてよくしてあげようということではありません。もちろん、体の疲れをとるためには仕事をやめて横になることも必要です。ただ、ただ何もしなければ休めるかというとそうではありません。魂に休みが与えられるためにはやりがいのある充実した仕事があるということも大切です。主は私たちのためにぴったりの「くびき」を用意し、それを私たちに負わせて下さいます。ただ私たちのために負いやすいくびきを与えてくださるだけでなく、それを共に負ってくださるのです。主と共にくびきを負いつつ生きることが一番楽で、一番大きな喜びと魂の休みを私たちにもたらしてくれます。「わたしのもとに来なさい」と招いてくださる主に喜んで近づくお互いでありたいと思います。
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