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マタイ 24章1〜14節 2018年12月29日 |
そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。(14) 主イエスの時代のエルサレム神殿はヘロデの神殿と言われ、主イエスの誕生の前から工事は始まって、主イエスの時代にはすでに四六年がたっていましたが、まだ完成していないという大工事によって築かれていました(ヨハネ二20)。その神殿には多くの巨大な石が切り出されて用いられていました。弟子たちは主イエスの注意を宮の建物に向けさせようとします。しかし、主は、このエルサレムの神殿の城壁が崩されてしまうときが来ると宣告なさいます。弟子たちは驚いて、いつそんなことが起きるのですか、と問います。
この弟子たちの問いに対する答えには、「神殿の陥落」と「世の終わり」の時の両方の時のことが書かれています。世の終わりの前兆として、主は戦争・地震・偽預言者・迫害などを上げられますが、同時に、そのような困難な時代の中で、主イエスの福音が全世界に宣べ伝えられることを予告されたのでした。
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マタイ 24章15〜22節 2018年12月30日 |
もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。(22) 今日の聖書の箇所の話は、おそらく神殿の破壊の時代に対する言及だろうとされています。実は主イエスがこのことを語られてから四十年後、紀元七十年にエルサレムはローマの軍隊によって全く崩されてしまって、今日に至っています。「荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つ」とは神殿が神を恐れない者によって汚されることを言っています。この紀元七十年のローマによるエルサレム陥落の時には、ユダヤ人たちに対する非常に激しい抵抗もあったのですが、彼らはとても厳しい状況の中に置かれ多くの人々が、悲惨な死に方でその命を落としたと言います。主イエスはそれでも、神のあわれみによってその期間は縮められるのだとおっしゃいます。
それ以降、イスラエルの民は国を失い、世界に散らされて、一九四八年に再び建国するまで世界地図からその名前を失っていたのでした。神の真実とあわれみとを思います。
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マタイ 24章23〜31節 2018年12月31日 |
そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。(30) エルサレムの陥落時にも多くの苦難があったのですが、主イエスの再臨の前にはさらに多くの迫害や困難が主を信じる者たちに臨みます。ただ問題は外からだけ起こってくるのではありません。にせ預言者やにせキリストがあらわれて、主を信じる者たちを惑わそうとします。彼らはしるしや奇跡をも行います。ですから奇跡や不思議を見せられたとしても、それで相手を信用としてついて行ってはいけません。
しかし、その後、主イエスはラッパの音と共に、天の雲に乗って地に帰って来られます。これが主イエスの再臨です。主は二千年前には、私たちのために十字架のあがないを全うするためにこの世にこられましたが、再臨の時には、私たちの救いを完成し、正しい裁きを行うためにこの世に来られるのです。それは密かにということではありません。人々は主が確かに来られるのを見るのです。
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マタイ 24章32〜51節 2019年1月1日 |
主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。(45〜46) 主が来られる時がいつかは分かりません。それが分かるといったり、分からないと主がおっしゃるものを予測したりすることは異端にもつながる危険なことです。ただ確かなことは主が再臨される前には前兆があること、ただ同時にそれは多くの人々にとって突然であること、そしてその再臨の時が近づいているということです。
私たちは主が再び来られるのを待ち望んでいます。その為に大切なのは、いつ主が来られてもよいように目を覚まして備えているということであり、忠実に、また思慮深く今を生きるということです。
私たちは主を待ち望みながら、この終末の時代に生きています。人々の愛は変わり、天地も変わって行くでしょう。そのような中で、主を待ち望む私たちを支えるのは変わることのない主イエスの御言です。主の御言は決して私たちを裏切ることはありません。主が語られたことは必ず成就するのです。
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