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マタイ 10章1〜4節 2018年10月28日 |
そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。(1) 主イエスの公生涯の働きを「教え・宣教・力ある業」とまとめることができるということを学びましたが、主イエスの公生涯のもう一つの大事な働きは弟子の訓練と言うことでした。もちろん、主イエスご自身も町々村々を巡り歩いて宣教に励まれたのですが、主イエスは弟子たちを選び、彼らを教え、また遣わされたのでした。弟子たちの中でも特に十二人を選び、主イエスのみそばに置かれました。その中には漁師たちがおり、取税人がいました。熱心党という右翼の構成員だったような人もいました。主イエスが自ら行かれた方がよい結果を出すことができたように思います。しかし、主は彼らに御自分の仕事を託し、彼らを送り出されました。彼らに現場でいろいろなことを学ばさせられたのでしょう。ただし、主は彼らを手ぶらで遣わされたのではありません。彼らにご自身の力と権威を授けて遣わされたのです。主は私たちをも遣わされます。
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マタイ 10章5〜15節 2018年10月29日 |
その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。 (12) 主イエスは彼らを遣わすにあたっていくつかのことを命じられます。主イエスはまず、彼らを「イスラエルの家の失われた羊のところに」遣わされました。異邦人やサマリヤ人にも主イエスの福音が伝えられる日が来るでしょう。けれども、この時点ではまず、その福音はイスラエル人に手渡されていきます。おそらく、異邦人やサマリヤ人の方が主イエスを受け入れやすかったかもしれません。しかし、主は選ばれたイスラエルの民を愛しておられました。
そして主は彼らにご自身の力と権威を授けられました。弟子たちは、まさに主イエスがなさっていたのと同じ業を行ったのです。そして、主は弟子たちに、必要についても心配しないでいくようにとおっしゃいました。必要はすべて備えられます。荷物が多いと、その荷物のゆえにできなくなってしまうことが多くなります。最小限のものだけ持って、主に信頼していくのです。
主は、どこの町でも滞在場所を決めたら、その家のために平安を祈るようにとおっしゃいました。いろいろな力ある業にまさって、この平安の祈りは力があるのです
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マタイ 10章16〜23節 2018年10月30日 |
彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。(19〜20) 主イエスも、弟子たちを弟子たちだけで遣わすのが、決してやさしいことではないことを知っておられました。それは「羊をおおかみの中に送るようなもの」なのです。迫害があるでしょう。多くの困難があるに違いありません。この主イエスの言葉はまさにマタイがこの福音書を書いているときに教会の置かれていた現実でした。裁判に引き出されることもあるでしょう。しかし、それはかえって人々に対する証しのチャンスとなります。何をどう語ったら良いのでしょうか。主イエスは心配するなとおっしゃいます。私たちが頭を悩まして絞り出さなくても、主が言うべきことを授けてくださるからです。語るのは私たちのうちにおられる父なる神の霊なのです。
困難はあるでしょう。しかし、私たちはもう一度来てくださると約束してくださった主イエスの再臨を待ち望みながら、主イエスに従って、この地上の歩みをしていくのです。
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マタイ 10章24〜33節 2018年10月31日 |
二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。(29〜30) 主イエスは、御自分の弟子たちが迫害を受けて捕らえられ、むち打たれるようなところを通ることを知っておられました。私たちも主イエスの弟子として生きる時に様々な迫害や困難にあうでしょう。それは私たちの師である主イエスが散々悪く言われ、また多くの苦しみの中を通られたからです。
けれども私たちは何も恐れる必要はありません。人間は私たちのからだに危害を加えることはできるかもしれませんが、魂を滅ぼすことはできないからです。二羽セットで売られているすずめの一羽でさえも、神の守りの中に置かれています。私たちはなおさらです。神様は私たちの髪の毛一本まで御心をとめていてくださるのです。
だから私たちは主が語られたことを喜びをもって大胆に語ります。人々の前でも主を証しし、たたえます。主がそのことを私たちに願い、また求めておられるからです。
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マタイ 10章34〜39節 2018年11月1日 |
自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。(38〜39) 弟子を二人一組で送り出す前に、主イエスが語られたメッセージが続きます。主イエスの弟子として生きるということは安穏とした生活を保証するものではありません。かえって主イエスの弟子として生きるということは、かえっていろいろなトラブルにつながるかもしれません。つまりこの世は、主イエスを、そしてその弟子を基本的に受け入れてはくれないのです。家族でさえもあなたの敵となるということもあるかもしれません。
私たちは何よりも、誰よりも、主を愛して、主イエスについていきます。それは「十字架」を負うということかもしれません。いえ、主イエスの弟子は、自分に与えられた十字架を負うのです。それは人と同じではないでしょう。その人その人に託された十字架があります。それは人間的にはうれしくないことでしょう。しかし、同時に、十字架を負う私たちの前に、十字架を負った主イエスが歩んでいて下さるということをいつもおぼえていたいと思います。
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マタイ 10章40〜42節 2018年11月2日 |
わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない。(42) 主イエスの弟子として、主イエスについていく歩みには多くの困難があるかもしれません。しかし、同時に、主イエスの弟子たちが語り、また証しする福音を受け入れる人たちが必ずいます。勇気を出しましょう。主は私たちの労苦を決して無駄にはなさいません。私たちが命を捨てて十字架を負って歩んで行く歩みは必ず実りをもたらしていくのです。
また神様は私たちの歩みの中に多くの助け手を置いていてくださいます。そのような助け手はクリスチャンかもしれませんし、ノンクリスチャンかもしれません。そしてまたその愛のわざは冷たい水一杯かもしれません。しかし、私たちはその愛のわざによって大きな慰めと励ましを与えられますし、主もまたそのことを覚えていて必ず報いてくださいます。
感謝すると共に、私たち自身も小さな愛のわざに生きるお互いでありたいと思います。
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