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マタイ 7章1〜5節     2018年10月8日

人をさばくな。自分がさばかれないためである。(1)

 私たちは人の過ちや失敗はとてもよく見えるものです。そして小さな過ちや弱さであっても、気になって仕方なくなったり、どうしても正してあげたくなったりするものです。それは私たちの正義感や善意に基づいているものなのかもしれません。けれども実際のところは人にダメ出しをし、非難し、上げ足を取り、批判する・・・とても親切なように見えながら愛のない批判であったりします。
 主イエスは「人をさばくな」とおっしゃいました。同じ規準で自分も裁かれることになります。もちろん、愛をもって忠告をし、耳の痛いようなことを語らなければならないこともあるでしょう。しかし、その場合にはまず自分を正すことです。主イエスは人の目にあるちりには気づくけれども、自分の目にある梁(大きな屋根を支えるほどの丸太)には気がついていないと指摘されました。私たちは案外、自分のことは見えていないのです。まず自分を点検していただいて、主の恵みによって正していただきたいと思います。

マタイ 7章6節     2018年10月9日

聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。(6)

 「豚に真珠」という言葉は聖書から来ています。どんなに高価な真珠でも、犬や豚には何のありがたみもないでしょう。かえって食べられない、意地悪をしているといって、あなたを攻撃し、かみついてくるかもしれません。
 ここで真珠にたとえられているのは、神の国の福音のこと神の真理のことでしょう。どんなにすばらしい教えも、またそのことを喜びをもって受け入れるなら救いが与えられるようなすばらしいメッセージも、残念なことですが、受け入れる心がない人には何の助けにもなりません。主イエスも信じる心のない人々に対しては力ある業を行うことはできませんでした。まず私たち自身が本当に神の恵みの価値を知る者とされるように祈りたいと思います。また福音を拒んでいる人々の心が開かれて、神のすばらしい救いを喜びをもって受け入れることができるように、祈りましょう。

マタイ 7章7〜12節     2018年10月10日

天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。(11)

 「求めよ、さらば与えられん」・・・昔から教会でよく語られ、キリスト教の有名なフレーズとして多くの人たちの耳に残っている聖句です。ただ一般的には一生懸命何かを得ようと励む人は、その願いを実現することができる、というようなニュアンスでとらえられているかもしれません。確かに「求めよ」「捜せ」「門をたたけ」という呼びかけは直訳すると「求め続けよ」「捜し続けよ」「門をたたき続けよ」というような継続・反復の意味を含む命令です。ちょっと求めたら、自動的に与えられるということではなく、主に信頼し、あきらめないで求め続けるということなのです。    
 悪い親でも子どもの求めであったら、それに答えてよいものを与える。ましてや天の父は求める者によいものをくださらないことはないのです。
 「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」。主イエスは自分が求めると共に、憐れみに満ちた天の父の子として、よいものを人に与えて生きることを教えられます。これは旧約聖書のエッセンスともされ、黄金律と呼ばれています。

マタイ 7章13〜14節     2018年10月11日

狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。(13〜14)

 13節からの部分は五章から続く山の上の説教のしめくくりの部分で、いわば聴き手に決断を迫る部分です。説教は単なるありがたい言葉ではありません。神の恵みの言葉を聞いた人々には、それを信じて一歩を踏み出すことが求められているからです。それは神を信じ、従うことへの招きです。それは決して有無を言わさずに言うことを強制的にきかせるということではなく、父なる神の恵みを精一杯いただいた者たちに呼びかける愛の招きなのです。
 ここではまず最初に狭い門と広い門が提示されます。そして主イエスが求められるのは狭い門から入るということです。狭い門は見つかりにくく、狭く、道は細い、そしてその道はあまり人気がありません。広い門は多くの人たちが入って行く道ですが、その道は滅びに続いています。狭い門から入って狭い道を進むことは一見とても困難なことに見えます。しかし、主が私たちと共にいて私たちを支え、命を得させてくださるのです。

マタイ 7章15〜20節     2018年10月12日

そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。(17)

 この箇所で語られているのは偽預言者に気をつけよ、ということです。狭い門・広い門とのつながりで言えば、偽預言者の教えることは案外とても人気があり、多くの人を引きつけ、賞賛を集めるかもしれないけれど、偽預言者に従って行く道は滅びに至っているのだということです。主イエスの時代にも多くの宗教的な指導者たちがいました。けれども「偽物」があるぞ、と主イエスは警告されたのです。多くの人がその人を評価し、またその周りに集まって来たとしても、偽物ということがあります。
 何が本物か偽物か、それを分ける鍵はその結ぶ実だと言います。良い実を結んでいたら、きっと木も良いし、悪い実を結んでいたらその木も悪いのです。私たちはきちんと本物を見分けることを学びたいと思います。究極の本物、良い実を結ぶ良い木は、主イエスです。主イエスこそが本物です。そして本物をしっかり見ていたらきっと自ずと、偽物をきちんと見分けることができるようになることでしょう。

マタイ 7章21〜23節     2018年10月13日

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。(21)

 本物・偽物という話の流れの中で、主イエスはただ、「主よ、主よ」と言っていればよいということではないと教えられました。どんな実を結ぶかが重要なのですが、実を結ぶとは、天の父の御旨を行うということでもあります。単に口先だけの信仰ではいけません。表面的な目に見えるところだけを見て判断することもできません。これは当時の宗教家たちに対する痛烈な批判でもあります。私たちは、他の誰かではなく、父の御旨を行って歩まれた主イエスについていきたいと思います。
 同時に、このところから私たちは自分自身をも振り返りたいと思います。自分は確かに「主よ」と主に祈り、主を求めている・・・ように見える。でも自分は本当に父の御旨を行っているだろうか、神の御心の真ん中を歩んでいるだろうか。自分は本物になっているだろうか。教会で華華しく語り、悪霊を追い出し、多くの力ある業を行ったとしても偽物ということがあるのです。

マタイ 7章24〜28節     2018年10月14日

わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。(24〜25)

 本物はイエスさまです。だとしたら、私たちにとって大切なのは、本物であるイエスさまの言葉をきちんと聞いて行うということです。ここで主イエスは、ご自身の言葉を聞いて行う人と、聞くには聞くけれど行わない人を、賢い人と愚かな人とおっしゃり、岩の上に自分の家を建てた人と砂の上に家を建てた人にたとえておられます。
 二軒の家とも、立派に立っていたことでしょう。内装もすばらしく、すばらしい家具が入っていたかもしれません。ただ違いはその土台にありました。それは見えない部分です。しかし、その見えない部分がはっきりとさらされてしまったのは、嵐になった時です。二軒とも嵐と無縁ではありませんでした。しかし、岩を土台とした家は雨にも風にも洪水にもびくともしませんでした。土台がしっかりしていたからです。動くことない土台にしっかりと基礎を置いた歩みをしていきたいと思います。



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