バックナンバー
|
マタイ 12章1〜8節 2018年11月8日 |
あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。(6) 主イエスが弟子たちと安息日に麦畑を通っておられたとき、弟子たちはとてもお腹が空いていましたので、麦の穂を摘んで食べ始めました。主イエスの時代、他の人の畑であっても、麦の穂を手で摘んで口に入れることは許されていました。ただ、鎌で他の人の畑の収穫を刈り入れるのは盗みになります。ですから問題は、その麦の穂を摘んだことではなく、その日が安息日であったということです。パリサイ人たちの主張は、弟子たちの行為は安息日に禁じられている仕事に当たるというものでした。
けれども主イエスはパリサイ人たちに、ダビデと供の者たちが飢えた時、何をしたかということを指摘されます。また安息日であっても、宮の仕事を担う者は、仕事をしても罪に定められることはありませんでした。しかし、彼らの前に立っておられたのは宮にはるかにまさるお方である主イエス・キリストだったのです。パリサイ人たちは言葉の表面をなぞるのに夢中になって、言葉が指し示している、救い主イエスに目を向けようとしなかったのです。
|
マタイ 12章9〜21節 2018年11月9日 |
そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。(13) 安息日論争はなお続きます。会堂に片手が動かせない人がいました。その日は安息日でした。パリサイ人たちは主イエスがその手の不自由な人をいやされるかどうかを固唾をのむようにして見ていました。もし主イエスが安息日にこの人をいやしたなら、医療行為という仕事を安息日に行ったことになり、重大な律法違反だと考えていたのです。
主イエスはパリサイ人たちが考えていることを全部お見通しでした。そこで、主イエスはパリサイ人たちに、もし、ここで痛んでいるのが、自分の羊だったらどうするだろうか、と問われます。きっと自分の所有している羊だったら安息日であっても助けていたでしょう。要は彼らはそこで痛んでいる一人の人のことよりも、規則を守るということの方が大切だったのです。主は彼の手をいやしてくださいました。主イエスはいためられた葦、けぶっている燈心をあわれんでくださるお方です。
|
マタイ 12章22〜37節 2018年11月10日 |
しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。(28) 今度は人々が悪霊につかれて、目が見えなくて、話すこともできない人を連れてきました。彼はまさに閉ざされた世界に生きていました。彼のコミュニケーション能力は著しく制限されていたからです。けれども、彼の閉ざされた世界に主イエスが来てくださいました。主イエスは彼を支配していた悪霊を追い出し、彼の目を開き、しゃべることができるようにしてくださったのです。
しかし、パリサイ人たちは、それでも主イエスを信じ、受け入れようとはしませんでした。そして主イエスは悪霊によって悪霊を追い出しているのだと非難したのでした。しかし、主イエスは、彼らの言葉をそこに働いておられる聖霊を汚す言葉として断罪されました。主イエスが来てくださって、主イエスを信じるなら救われる恵みの世界が開かれているのに、主イエスを受け入れるように促す聖霊の働きを拒んでしまったら救いはどこにもないのです。
|
マタイ 12章38〜45節 2018年11月11日 |
しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。・・・しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。(41、42) 律法学者・パリサイ人たちは主イエスを信じようとしませんでした。信じる心を持たないままに、主にしるしを求めます。けれども、しるしを見たら信じる、と言っている人は、何を見たとしても結局信じることはしないでしょう。主イエスはしるしを求める時代は邪悪で不義な時代だとおっしゃいます。「預言者ヨナのしるし」という言葉でイエスさまがおっしゃったのは、預言者ヨナが三日三晩魚の中にいてそこから出て来たように、主イエスも墓の中から三日目によみがえることを指しています。主イエスの復活こそが最大のしるしでした。けれども主イエスがよみがえられても、悔い改めて信じない人たちが多かったのです。
またシバの女王はソロモンの知恵を聞くために遠くからやって来ました。しかし、ヨナにも、またソロモンにもまさる主イエスがそこに立っておられるのに受け入れようとしない人々は多くの悪霊に支配されるようになってしまう、と主は警告されたのでした。
|
マタイ 12章46〜50節 2018年11月12日 |
ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである。(49〜50) 主イエスのことを悪霊のかしらベルゼブルにとりつかれていると悪く言う宗教指導者たちの言葉はナザレにいた主イエスの母マリヤや弟妹たちの耳にも入ったのでしょう。心配した家族が主イエスを訪ねてやってきます。他の福音書を読むと、主イエスを連れ戻しに来たのだと記されています。
人々が主イエスの家族が来たことを告げたとき、主は積極的に自分の家族に会おうとはされませんでした。主が家族をどうでもよいと考えておられたのではないことは、主イエスが十字架の下にいた母マリヤを自分の愛する弟子にゆだねられたことからも見て取れます。ただ同時に、主は人間的な愛着に縛られて、主イエスを救い主と受け入れることが難しかった家族をここで一旦突き放されたのかもしれません。主イエスの家族は後に教会にとても大切な担い手になっていきます。しかし、ここでは主は父のみこころを行う者が私の家族なのだと、新し家族を設定されたのでした。
|
|
|