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マタイ 13章1〜23節 2018年11月13日 |
また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである。(23) この十三章には「天国は」で始まるたとえが集められています。マタイによる福音書で「天」と言うときにはそれは「神」を言い換えていることが多いのです。ですから、マタイによる福音書で「天国は」と書かれているところが他の福音書では「神の国は」となっています。マタイは読み手に多いユダヤ人に配慮して、神の名をみだりに唱えないように、「神の国」を「天国」と読み替えたのだとされています。いずれにしてもここでとりあげられているのは、神が支配される世界のことです。
最初の種まきのたとえでは、四つの地が出て来ます。種自身には問題はないのですが、それがどの地に落ちるかで大きな差が出て来ます。種である神の言葉がどのように受けとめられるか、聞かれるかで大きな差が出てくるということです。私たちは百倍、六十倍、三十倍の実を結んだ良い地のような聞き方がしたいと思います。御言を聞いて悟る、それは聞いて、それを単に文言として記憶する、理解するというだけでなく、それを心に受けとめ、生きることなのです。
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マタイ 13章24〜30,34〜43節 2018年11月14日 |
収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう。 (30) 「毒麦のたとえ」と言われるたとえ話です。主人は畑を耕し良い麦の種をまきました。ところが夜の間に、敵がやって来て、その畑に毒麦をまいたのでした。毒麦は実などに神経毒があるというのですが、最初は小麦と見分けがつきません。毒麦が混じっているということが分かってきたのは、実が出て来てからでした。ただ、毒麦だけを抜こうとすると、良い麦まで一緒に抜いてしまいそうです。そこで、主人は収穫までそのままにしておいたのでした。収穫の時には別々にまとめて毒麦は焼いてしまい、良い麦は倉にいれるのです。
神様は今は良い麦も悪い麦も生えていることを許しておられます。しかし、収穫の時が来ます。それは神が正しい裁きをなさる日です。その日には永遠の裁きに行く人と、永遠の命に至る人が分けられます。主が備えてくださっている恵みの日のうちに、悔い改めて主を信じるお互いでありたいと思います。
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マタイ 13章31〜33節 2018年11月15日 |
天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる(31〜32) からし種とパン種の話です。両方ともとても小さなものが大きなものに変わっていく、または全体に大きな影響を及ぼすようになるということです。からし種はごまよりも小さく、ケシ粒またはコスモスの種ほどの小さな種です。ただしこれはどんどん大きくなって鳥が宿るほどの木になります。神の国も最初は小さく始まりました。主イエスを信じる者たちはほんの一握りでしたし、主イエスが十字架につけられたときには弟子たちでさえ逃げていったほどです。しかし、今は世界中に主イエスを信じる人たちがいます。
主イエスを信じる人たちは小さく、数も少なかったのですが、彼らには命がありました。そしてちょうど少量のイースト菌が粉のかたまり全体をふくらませるように、その小さい主の群れが社会に影響を及ぼし、世界を変えていきます。小さくあることを恥じる必要はありません。大切なのは内側に命があるかどうかです。
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マタイ 13章44〜45節 2018年11月16日 |
天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。(44) 天国にはとてつもない価値があるということ、そして天国を得るためにはすべてを捨てる覚悟が必要だということを主イエスは二つの短いたとえを用いてお話しになりました。
ある人が他の人の畑で宝物を見つけました。たとえ話の場合には、中心的な一つのメッセージを伝えようとするものですので、ここで今の私たちの習慣に照らし合わせて、宝を見つけたら、その畑の持ち主に言うべきではないかとか、警察に届けるべきではないか、というような議論をする必要はありません。大切なのはこの後です。彼はその宝の埋まっていた畑を買い取ります。彼はそのために自分の持ちもの全部を売り払います。しかし、彼には全く迷いがありません。そこにとんでもない価値のある宝があることを知っているからです。
真珠の商人の話も同じです。彼も持ち物を全部売り払って、この真珠を買います。私たちの天国はどんな宝にもまさる大きな価値があるのです。
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マタイ 13章47〜50節 2018年11月17日 |
世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。(49〜50) ここでは網で魚をとる話がされます。主イエスの弟子たちの中には少なくとも四人は漁師たちがいました。漁師たちが網を投げて、魚をとり、網を陸地に引き上げる状景は誰もが見たことのある状景だったはずです。陸に網を引き上げると、漁師たちは座って魚を仕分けします。そして、売り物になるものと食べることもできず捨てるしかないものを分けるのです。
天国でも同じことが起こります。それは「世の終わり」に関することです。その時は救いの完成の時です。わたしたちは主イエスを信じ、罪赦され、救われました。しかし、救いの完成の時はまだ向こうにあります。私たちは栄光の姿に変えられ、永遠に主と共に住みます。ただ、その世の終わりは、裁きの日でもあります。救いの日が終わり、神の前に裁きの座が開かれます。用意されている主の救いを受け入れることをしなかった人たちに与えられるのは永遠の滅びです。主が創造された世界が終わり、完成する時を持ち望みながら恐れをもって主に仕えていきたいと思います。
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マタイ 13章51〜52節 2018年11月18日 |
それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである。(52) 天国・・・それは神が支配される王国です。私たちはすでにその中に生かされていると共に、やがて来たるその完成の日を待ち望みます。それは旧約聖書の時代からずっと語られ続けたメッセージです。イスラエルの民は、神の民として救い出され、神を王として仕えて行くようにと期待されていました。しかし、イスラエルの民は主を拒み、自分勝手な歩みを始めました。まさに神が王ではなく、自分が王の座について主を追い出すような歩みでした。けれども、そんなイスラエルの民に対して主は回復と救いを語られたのでした。それは古くからあるメッセージでした。
同時にそれは新しいメッセージでした。主イエスの語られるお話には権威があり、それでありながらとても分かりやすいものでした。そして主が備えてくださった十字架の救いはそれまで誰も想像も期待もしていなかった新しいものなのです。
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マタイ 13章53〜58節 2018年11月19日 |
そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった。(58) 主イエスは自分が育った郷里であるナザレにやってこられました。人々は驚きと賞賛をもって主イエスを迎えます。まさに主イエスは時の人でした。しかし、ナザレの人々は主イエスを受け入れ信じることができませんでした。人々は大工の子として生まれ、弟や妹たちと一緒に育ち、ご自身も大工の仕事をしておられた主イエスが、すばらしい恵みのメッセージをなさり、また力ある業を行われても、主イエスを救い主として信じることができなかったのです。「どこでこれだけのことを身につけたのだ」というのが人々の興味でした。
主イエスはこのようなナザレの人たちの姿を「不信仰」とおっしゃいます。主イエスにすがり、罪のゆるしと神の救いをいただこうと求める人はほとんどいなかったのです。主イエスは「そこでは力あるわざを、あまりなさいらなかった」とマタイは言います。主イエスが出し渋られたのではありません。信仰のないところでは主はその力をあらわすことをなさらないのです。
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