chuo@8008amen.com


バックナンバー

旧約聖書
新約聖書
マタイによる福音書
(章) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
  11 12 13 14 15 16 17
  18 19 20 21 22 23 24
  25 26 27 28
バックナンバー
マルコによる福音書
ルカによる福音書
ヨハネによる福音書
使徒行伝
ローマ人への手紙
コリント人への第一の手紙
コリント人への第二の手紙
ガリラヤ人への手紙
エペソ人への手紙
ピリピ人への手紙
コロサイ人への手紙
テサロニケ人への第一の手紙
テサロニケ人への第二の手紙
テモテへの第一の手紙
テモテへの第二の手紙
テトスへの手紙
ピレモンへの手紙
ヘブル人への手紙
ヤコブの手紙
ペテロの第一の手紙
ペテロの第二の手紙
ヨハネの第一の手紙
ヨハネの第二の手紙
ヨハネの第三の手紙
ユダの手紙
ヨハネの黙示録
マタイ 23章1〜15節     2018年12月25日

彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。(3)

 主イエスは人々に対してパリサイ人たちや律法学者たちといった、その時代の宗教家たちのことを批判して言われました。彼らは「モーセの座」に座っている。彼らは自分を権威者として高いところに置いていました。彼らは立派なことを言っていましたが、自分が語っているようには生きていませんでした。ですから主イエスは、彼らの言うことは守って実行しなさい、だがすることにはならうなと警告されました。彼らはすべてのことを人に見せようとして行っていました。彼らは人にほめられ、あがめられることを求めていたのです。
 主はご自身の弟子たちに、自分を誇り、人々の上に権威を振りかざすような生き方ではなく、自分を低くして、人々に仕える歩みを求め、期待しておられます。それが偉い人の生き方、主が喜ばれ、また主が評価される生き方です。そして、主イエス徹頭徹尾そのような生き方を貫かれたのです。

マタイ 23章16〜24節     2018年12月26日

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。(23)

 律法学者やパリサイ人たちはよく聖書を読み、学んでおり、またとても真面目な人々でした。彼らは律法を良く理解し、また人々を指導していました。しかし、主イエスはそんな彼らに対して「偽善者」と言い、「盲目な案内者」と呼びました。彼らはもっともらしく人々にアドバイスし、また指導しているけれども、表面的なことばかり気にしていて、律法にあらわされた神の思いに対しては全く無頓着だったからです。
 彼らには律法を守ろうとする思いはありました。そして確かに文字面に対してとても忠実でした。それがどうでもよいということではありません。けれども彼らは表面的な部分を守ることに夢中になって、こんなに自分は真面目だと自分を誇ったり、また何もできていないと人々を裁き、こき下ろすことに夢中になって、もっと大切な「公平とあわれみと忠実とを見逃している」と主イエスは指摘されました。それは一番見逃してはならないものでした。 

マタイ 23章25〜28節     2018年12月27日

盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。(26)

 主イエスの時代の宗教家たちは汚れを負わないために、自らの身を洗ったり、また自分たちが使用する器を洗ったりすることにとても熱心でした。外から見るととてもきれいに見える。しかし内側には、汚いものがたくさん入っている。外側はどんなにきれいに洗っていたとしても、心の内側は貪欲と放縦で満ちている。人の前では立派に見せているかもしれない。しかじ、心の中は偽善と不法とでいっぱいだ。それはまさに白く塗った墓のようだとさえ、主イエスはおっしゃったのでした。
 そして主イエスはおっしゃいます。まず杯の内側をきよめるがよい。それは器のことを言っているのではなく、私たちの心の中のことです。ただ、私たちはどんなに頑張っても、また真面目に歩もうと決心したとしても、自分で自分をきよくすることはできません。私たちの内側をきよくすることができるのは主イエスだけです。まさにそのために、主は十字架にかかって死のうとしておられたのです。 

マタイ 23章29〜39節     2018年12月28日

ああ、エルサレム、エルサレム、・・・ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。(37)

 主イエスの律法学者、パリサイ人たちに対する言葉は辛辣であり、容赦・手加減がありません。これらの宗教家たちは自分たちは真面目で神に仕える誠実な者たちだという自己評価を持ち、また人々にもそのように見られていました。ここまでストレートに厳しいことを言われたことはなかっただろうと思います。けれども主イエスは決して彼らを挑発しておられるのではありません。主イエスは彼らが自分の罪深さに気づき、悔い改めて神に立ち返ることを願っておられたのです。まさに神は、「めんどりがその翼の下にそのひなを集めるように」彼らを御自分のもとに引き戻させようとしておられたのです。
 案外自分のことは見えないものです。だから主の光の下に置かれたときに、光の下から逃げないで、自分の罪・過ちを認めて、悔い改めて主にあわれみを求めることです。主は私たちをきよめ、御自分の宝の民として喜んで私たちを迎えてくださるからです。 



礼拝メッセージ
毎週日曜日の
礼拝での
メッセージから


生活の処方箋
日々を楽しく過ごす
ためのヒントが
ここに