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マタイ 9章1〜7節 2018年10月21日 |
イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。(2) 主イエスはガダラ人の地から、「自分の町」、おそらくカペナウムに戻られました。主イエスが帰ってこられたという知らせを聞いて人々はまた集まってきます。主イエスのおられた家は人で身動きもできないほどいっぱいになっていました。
さて、そんなイエスさまの元に、人々が中風の男を連れてきました。中風のために、体が動かなかったのです。人々は彼を主イエスのところに連れていったら、きっと主イエスは癒し、助けてくださると信じていたのです。しかし、すでに家は人々でいっぱいです。彼らはその中風の男を屋根に担ぎ上って、屋根に穴を開け、彼を主イエスの前につり下ろしたのでした。
主イエスは彼が連れて来られた時、彼の一番の問題は罪の問題であり、一番の必要は罪のゆるしなのだということが分かっておられました。主イエスは彼の体も魂も救ってくださったのでした。
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マタイ 9章9〜13節 2018年10月22日 |
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。・・・わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。 (12) 主イエスが道を進んで行かれたとき、収税所のところを通られました。おそらく通行税のようなものを徴収する場所だったのだろうとされています。取税人マタイはそこに座っていました。主イエスはそこを通るとき、マタイに目を止めて、彼に「わたしに従ってきなさい」とおっしゃいました。もしかしたら、マタイはそれまでに、主イエスの噂を聞いていたかもしれません。主イエスに声をかけられた時に、彼は躊躇なく、主イエスに従っていったのでした。
その後、取税人・罪人たちが集まる食事に主イエスを招待したのはこのマタイ自身でした。取税人マタイの知り合いや友人が取税人や罪人と呼ばれる人々であったのはある意味当然だったことでしょう。取税人はローマのための税金を集めるローマの手先として、人々から罪人や遊女と同じようなカテゴリーの入れられていました。
イエスさまは自分は、罪人を招くため、罪人の医者としてきたのだと彼らの中に入って行かれたのです。
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マタイ 9章14〜17節 2018年10月23日 |
新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。(17) 主イエスの時代の宗教家たちはとても厳格で真面目な宗教的な実践の中に身を置いていました。断食などもその宗教的生き方の核をなす部分だと考えられていました。そして、罪の悔い改めを語ったバプテスマのヨハネの弟子たちもとても真面目な人々で、他の宗教家たちが大切にしているものを受けとめていたのでしょう。
しかし、イエスさまの弟子たちは他の宗教家たちが大切にしているような定期的な断食の実践などはしている風もありません。
バプテスマのヨハネの弟子たちは、主イエスのところに来て、質問します。「あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか」。主イエスは、彼らが花婿なる主イエスを迎えて喜びの中にあることを指摘します。
新しいぶどう酒は、まだ発酵が進みますので、古い伸びきった皮袋に入れたら、皮袋もぶどう酒もだめにしてしまいます。主イエスの喜びの知らせ、福音は、それまでの古い考え方、古い生き方の中に押し込むことはできないのです。
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マタイ 9章18〜26節 2018年10月24日 |
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。(20〜21) 主イエスの時代、イスラエルの国内外には、主を礼拝し、共に聖書を学び、また子どもたちを教育するために、会堂が建てられていました。イスラエルが捕囚の民としてバビロンに引いていかれ、各地に散らかされる中で、神殿に代わる礼拝の場として会堂のシステムが確立していったのだと言われています。そして会堂には、会堂司という管理人がいました。会堂司は人々からとても信頼され、尊敬されていたと言います。ある会堂の会堂司の娘が病気になり、死んでしまいました。しかし、この会堂司は主イエスに助けを求めます。十二年間婦人病に悩んでいる女性がいました。彼女も主イエスに近づきます。病気が病気なので、正面から主イエスに近づくことはできなかったのですが、彼女はうしろから近づいて主イエスのみ衣のふさに触ったのでした。主イエスは今も、信じて近づく者たちを救ってくださいます。主イエスにはその力があるからです。
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マタイ 9章27〜31節 2018年10月25日 |
そしてイエスが家にはいられると、盲人たちがみもとにきたので、彼らに「わたしにそれができると信じるか」と言われた。彼らは言った、「主よ、信じます」。 (28) 二人の盲人たちが叫びながら主イエスについてきました。「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんでください」。「ダビデの子」というのは、メシヤ(救い主)の称号でした。ダビデの子として、ダビデのような偉大な王として、救い主が来てくださると人々は待っていたからです。主イエスは家に入り、彼らに問われました。「わたしにそれができると信じるか」。彼らが期待していたのは、主イエスが彼らの目を開いてくださることでした。彼らは「主よ、信じます」と答えます。彼らは主イエスには彼らの目を開く力があると信じていたのです。
私たちは神様に祈ります。願いを申し上げ、また求めます。けれども時に、私たちは、主が本当にそのことをしてくださる、またはそのことがおできになると信じてはいません。ですから主イエスはおっしゃいます。「わたしにそれができると信じるか」。「信じます」とお応えして、主を仰ぐお互いでありたいと思います。
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マタイ 9章32〜34節 2018年10月26日 |
彼らが出て行くと、人々は悪霊につかれたおしをイエスのところに連れてきた。すると、悪霊は追い出されて、おしが物を言うようになった。(32〜33) 口のきけない男がいました。聖書は彼が悪霊につかれていた、と言います。もちろん、すべての病気の原因を悪霊のせいにしてはいけません。しかし、彼の場合には、悪霊が彼をしゃべれなくしていたのでしょう。どのように彼が悪霊にとりつかれることになってしまったかは分かりません。ただ多くの場合、小さな油断がやがて大きな災いを招くことになります。「まあ、いいか」とサタンに対して甘い顔をすると、サタンは少しずつ、私たちの罪に対する感度を鈍くし、やがては全く私たちをその支配下においてしまうのです。そして、私たちがサタンに縛られてしまうと、私たちは神を賛美することがなくなります。神に感謝したり、神をあがめ、主を証しすることがなくなってしまいます。口がきけなかったこの男のように、その口を主のために用いることができなくなってしまうのです。主イエスは彼の悪霊を追い出してくださいました。私たちの口はどうでしょうか。
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マタイ 9章35〜38節 2018年10月27日 |
収穫は多いが、働き人が少ない。 9:38だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。(37〜38) 主イエスは町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え(「教え」)、御国の福音を宣べ伝え(「宣教」)、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった(「力ある業」)のでした。ここでも主イエスの公生涯における三つの働き、教えと宣教と力ある業が示されています。
ただ主イエスの働きは、何かノルマをこなすというようなことではなく、人々に対する深いあわれみから出たものでした。主イエスは私たちをあわれみ、私たちに近づいてくださり、私たちを救ってくださったのです。
そして、主イエスはおっしゃいます。「収穫は多い」。そうです。豊かな収穫が待っています。しかし、「働き人が少ない」。人手が足りないのです。伝道者のことだけではありません。主に聞き、主を信じ、主に従っていく働き人がもっともっと必要なのです。あなたも主の働き人になってください。また多くの働き人が起こされるように祈ってください。
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