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マタイ 21章1〜11節     2018年12月14日

こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。すなわち、「シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」。(4〜5)

 主イエスはエルサレムに近づかれたときに、二人の弟子たちを遣わしてろばの子を連れてこさせられました。そして、そのろばの子に乗って、エルサレムに入城されたのでした。ろばとは勇ましい武力に長けた王が乗るには何とも不格好で頼りなさげに見えたことでしょう。しかし、主イエスは柔和なお方、平和をもたらす王として来られたのです。主イエスがローマと一戦交えて、武力で世界を治める王として君臨しようとしているのではないことはとても明白でした。そして、主がろばに乗って入城されることは預言者ゼカリヤが語っていた主の言葉の通りでもありました。
 「これはいったいどなただろう」。ガリラヤの人々は主イエスのことをよく知っていましたが、ユダヤ地方、そしてエルサレムに住む人々はあまりよく知らなかったのかもしれません。この時、ホサナと叫びながら主イエスを迎えたのは、ガリラヤからエルサレムに上ってきた人々だっただろうとも言います。平和の王を喜びをもってお迎えしたいと思います。

マタイ 21章12〜17節     2018年12月15日

『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。(13)

 エルサレムの神殿の東側の門は、王が利用する門だったと言われていますが、ホサナの声の中、主イエスが用いられたのはまさにその東側の門で、そこから主イエスは神殿の中に入って行かれました。すると正面には聖所があるのですが、聖所のエリアに入る前に、広場があって、そこは異邦人の庭と呼ばれていました。異邦人たちがエルサレムの神殿で礼拝する時には、この異邦人の庭までしか入ることはできませんでした。言い換えると、この場所は異邦人にとっては大切な礼拝の場でした。しかし、そこに両替人やはとを売る人たちがいました。そのころ、生活ではローマの貨幣を使っていましたが、ローマのお金は汚れているからと献金用にはイスラエルのお金が用意されていました。また遠くから礼拝に来る人たちの便宜を図るために、神殿で神にささげるための動物を売っていたのです。もともとは善意で始めたことがいつの間にか儲けのためになり多くの利権を生んでいました。しかし、主イエスは祈りの場が汚されていると憤られたのです。

マタイ 21章18〜22節     2018年12月16日

「・・・もしあなたがたが信じて疑わないならば、・・・この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう。(21〜22)

 この時期は三月の末から四月の初めです。いちじくの実がなるのにはまだ早かったと思います。しかし、空腹を覚えられた主イエスはそのいちじくの木に実がないのを見て、その木を呪われたのでした。この聖書の箇所の主イエスは少々無茶苦茶に見えます。しかし、ある人は、この時期にもいちじくは小さな実をつけるものがあり、またこの時期に小さな実がなることが後の大きな収穫を期待させるのだと言います。けれども、同時にこれはいちじくのことをおっしゃっただけではなく、いちじくに象徴されるイスラエルの民に対する警告の言葉なのだとも言います。実を結ぶべきイスラエルが実を結ばなかったら、神の裁きが臨んで滅んでしまう・・・主イエスは警告されたのです。
 弟子たちは主イエスが語られた時、いちじくが枯れたのを見て驚きます。しかし、祈りの時、信じて求めるならみな与えられると、主イエスは約束してくださいました。信じて祈りましょう。

マタイ 21章23〜27節     2018年12月17日

イエスが宮にはいられたとき、祭司長たちや民の長老たちが、その教えておられる所にきて言った、「何の権威によって、これらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。(23)

 主イエスが両替人や動物を売っていた人たちを神殿の庭から追い出したということはすぐに神殿を管理していた祭司長たちの耳に入りました。ある意味、彼らは宮を管理する立場にある者として商売人たちからなにがしかのリベートを受けていたでしょうし、また神殿の中で騒ぎが起こることによってローマ軍が神殿に突入し、今自分たちに許されている自由が失われることをとても恐れていました。主イエスが神殿で教える時に、そこに多くの人たちが集まっていたのも不安の種だったでしょう。彼らは主イエスの存在にとてもイライラしていました。
 「何の権威によってこれらのことをするのですか」という祭司長たちの問いに主イエスは直接はお答えになりません。実際、主イエスが正直にそのことに答えても、彼らはそのことを受けとめることをしなかったでしょう。彼らの不信仰、正しいと思っていることをしない生き方をバプテスマのヨハネのことを上げながら明らかにしていかれたのです。主イエスの権威の下にひざまずき、従う者でありたいと思います。

マタイ 21章28〜32節     2018年12月18日

また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。(30〜31)

 主イエスの時代の宗教家たちは自分は神に従い、正しい生き方をしているという自負を持っていました。しかし、バプテスマのヨハネが現れて、メシヤの到来を告げ、約束されたお方をお迎えするために準備をするように、悔い改めて、正しい生き方をするようにと語った時に、悔い改めて、メシヤなる主イエスをお迎えしようとはしませんでした。宗教家たちは正しい歩みがどのようなものかを知っていましたし、口では「従います」と言っていました。けれども、彼らは神に従うことをせず、神が遣わされた主イエスを受け入れませんでした。これはちょうど、従います、と言いながら従わなかった兄のようなものです。
 取税人たちや遊女たちは確かに多くの罪を犯していたでしょう。しかし彼らはバプテスマのヨハネが現れたときに悔い改め、そして主イエスを受け入れて、主イエスにすがりました。彼らは、一度は断りながらも結局は父の思いに答えた弟のようです。私たちは父なる神の思いにどうお応えしているでしょうか。

マタイ 21章33〜46節     2018年12月19日

しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。(37)

 ぶどう園のたとえです。このぶどう園の農夫たちは、主人に信頼されて、ぶどう園の管理を任されていました。主人はすべての準備を整えてから旅に出ましたから、農夫たちに求められていたのは、きちんと自分の仕事をして、主人にその収穫の分け前を渡すということだけでした。そして主人は収穫の季節に僕たちを送り、その分け前を受け取ろうとしました。主人は農夫たちに対して少しの疑いも持っていなかっただろうと思います。しかし、農夫たちは、僕たちを袋だたきにしたり、殺したりします。主人はさらに多くの僕たちを送りましたが、その僕たちにも同じ扱いをしました。その時に、主人は自分の息子を送る決断をします。主人はなお、農夫たちを信じ、期待していたのです。しかし、農夫たちはその主人の息子をも殺してしまったのでした。
 宗教家たちはこのたとえ話を聞いたときに、主イエスが自分たちのことを話しておられるのに気づきました。しかし、彼らはそれでも思いとどまって、悔い改めようとはしませんでした。主が与えておられる悔い改めのチャンスを逃さないようにしたいと思います。



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