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マルコ 1章1〜13節 2019年1月20日 |
神の子イエス・キリストの福音のはじめ。(1) 今日からマルコによる福音書に入ります。マルコによる福音書は四つの福音書の中でも一番古いものと言われています。ここには「力あるしもべ」としての主イエスの姿が描かれ、強さ・権力・力などに価値を置くローマ人が読み手に多かったのではないかとされています。
マルコによる福音書は、主イエスの誕生物語には触れません。いきなり、主イエスの公生涯から書き進めていきます。「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」。福音とは良い知らせのことです。マルコは良い知らせについて書こうとしています。そしてこの良い知らせは神の子であるイエス・キリストと関係していることです。まさにこの福音は主イエスによって私たちにもたらされたのです。
神はイザヤ書に記されている通り、救い主が来られる前に道備えをするためにバプテスマのヨハネを遣わされました。そして主イエスもまたヨハネからバプテスマを受けました。主は王として、またしもべとしてその歩みを始めようとしておられたのです。
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マルコ 1章14〜20節 2019年1月21日 |
イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。(17〜18) 主イエスはガリラヤでその宣教をスタートされました。主イエスが語られたのは「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」ということでした。「時は満ちた」とは旧約聖書の約束が成就する日が来たことをあらわしています。「神の国は近づいた」とは神の支配、神の救いが来たことを示しています。だからこそ、その神の支配の中に入るために、「悔い改め」て神が用意してしてくださった救いを「信じる」のです。
主イエスはガリラヤ湖畔で、漁師たちに声をかけられます。「わたしについてきなさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」。主はペテロとその兄弟アンデレ、ヤコブとその兄弟ヨハネを召し出されます。そしてご自身と一緒に歩む生涯を始めるようにと招かれたのです。そして、主はご自身について来る者を人間をとる漁師、神のすばらしさを伝えて、人々を神さまのところに立ち帰らせるしもべとして用いてくださるのです。
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マルコ 1章21〜28節 2019年1月22日 |
人々はみな驚きのあまり、互に論じて言った、「これは、いったい何事か。権威ある新しい教だ。けがれた霊にさえ命じられると、彼らは従うのだ」。(27) 主イエスはカペナウムの会堂で人々を教え始められました。人々はその教えに驚きます。それはその当時の聖書の教師だった律法学者たちのようにではなく、「権威ある者のように」教えられたからです。その当時の一般的な教師たちは、自分の言葉で語るのではなく、多くの先達たちの言葉を引用し、先人たちの権威を借りながら話をしました。しかし、主イエスは借り物ではない、自らの言葉を用いて大胆に語られたのです。
また主イエスの言葉には力がありました。主イエスが汚れた霊に命じられると、汚れた霊が主イエスの言葉に従ってその人の中から出ていったのでした。
ですから主イエスの言葉を聞こうとして、人々が集まってきました。主イエスの言葉には今も権威があります。主イエスの言葉を聞き、その言葉に信頼し、またそれに従うことです。主イエスの言葉には命があり、私たちの生涯を造り変えて行くからです。
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マルコ 1章29〜34節 2019年1月23日 |
イエスは近寄り、その手をとって起されると、熱が引き、女は彼らをもてなした。(31) ガリラヤ湖の漁師だったペテロ(シモン)やアンデレが主イエスの弟子となってイエスさまについて行くことを決断した時、すでにペテロは結婚していました。ペテロの決断はその妻や家族からどのように受けとめられただろうかと思います。
ペテロの奥さんのお母さんは熱病で寝込んでいました。イエスさまがペテロとアンデレの家に入って行かれたときに、人々は寝込んでいるペテロのしゅうとめのことを知らせます。主イエスはしゅうとめのところに近づいて、その病をいやしてくださいました。ペテロのしゅうとめは元気になって、さっそくイエスさまたちをもてなします。それほど全くいやされたのでした。またいやされたしゅうとめは主イエスに対する感謝を表さずにはいられなかったのでしょう。
ペテロはアンデレと共に、主イエスに従い、町々を行き巡っていきます。家を留守にすることが多かったでしょう。しかし、このしゅうとめはきっとペテロの働きを背後から支えたことだろうと思います。
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マルコ 1章35〜39節 2019年1月24日 |
イエスは彼らに言われた、「ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教を宣べ伝えよう。わたしはこのために出てきたのだから」。(38) 人々は病人や悪霊につかれた者たちを主イエスのところに連れてきました。病気の人、その家族、また主イエスのいやしの奇跡を見たいと思ってやって来た野次馬たち・・・イエスさまのおられた家の戸口にところに町中の人たちが集まって来ました。主イエスは人々の病をいやし、また悪霊を追い出されました。イエスさまはまさに時の人でした。おそらく町中が主イエスの話で持ちきりだったことでしょう。ただ主イエスは人々の熱狂を利用しようとはなさいませんでした。
主イエスが朝早く、起きて寂しい所で祈っておられたのは、神の思いとはずれてしまっている人々の思いと距離を置きたいという思いを持っておられたからかもしれません。主イエスはまさに祈らずにはいられなかったのです。そして、主イエスは人々の熱狂の中に戻ることはなさらないで、次の町に進んで行かれました。主イエスは他の町の人々にも神のことを伝えたいと思っておられたからです。
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マルコ 1章40〜45節 2019年1月25日 |
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。(41) ひとりの重い皮膚病の人がイエスさまのところに近づいてきました。この「重い皮膚病」は宗教的な汚れとしてとらえられ、城壁のある町に入ることも、また人々に接触することも禁じられていました。そしてこの病を判定するのも、それが治癒したことを認めるのも祭司の務めでした。
彼は主イエスに近づいてひざまずいて言います。「あなたが願われるなら、わたしはきよくしていただけるのですが」。彼は主イエスには自分の病も癒すことがおできになると信じていたのです。主イエスは、「そうしてあげよう」とおっしゃいます。これは直訳すると、「わたしはそう願う」という意味です。主イエスは彼が病から解放され、また汚れからきよめられることを願われたのです。主イエスが「きよくなれ」とおっしゃった時に、その重い皮膚病は直ちにその人から去ってしまいました。主イエスは今も、わたしたちがきよくされることを願い、また実際に、わたしたちをきよくしてくださるお方です。
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