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マタイ 15章1〜20節 2018年11月24日 |
というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。(19〜20) パリサイ人や律法学者は主イエスの時代のとても熱心な宗教家たちでした。彼らはとても純粋なところもあったのですが、彼らの熱心さや純粋さは、律法を守るという一事に向いており、その熱心さゆえに、自分の宗教性を誇ったり、自分のように熱心でない者たちを批判し、裁くということがありました。今日の場面でも、手を洗うかどうかということが問題になっています。それは衛生的にということではなく、何か汚れたものに触れていたとしたら、洗わないままで食事をすると、その宗教的な汚れが口から入ってその人を汚してしまう、ということがあったのです。彼らは確かに熱心でしたが、御言の精神、神の思いからはかけ離れていました。主イエスは外から入ってくるものではなく、人の内側から出てくるものこそが問題なのだとおっしゃいました。具体的に罪を犯す前に、そのような汚れたものが私たちの内側にある。それこそが問題です。そして主イエスはその問題に解決を与えるために来てくださったのです。
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マタイ 15章21〜28節 2018年11月25日 |
すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。(27) 主イエスは弟子たちと一緒に、ツロ・シドンに行かれました。そこは地中海沿岸の地方で、異邦人の町々がそこにはありました。主イエスはイスラエルにおられる時には隠れていることはできません。いつも人々が大勢集まって来ましたから、一人になりたいときや、弟子たちと一緒に特別な時を過ごしたいと願われるときには、このような異邦人の地に退かれることがあったのです。
ところがその地方出身のカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください」と叫びながらついてきました。彼女の娘が悪霊につかれていたのです。主イエスは彼女にすぐには答えられませんでした。しかし、彼女はあきらめません。主イエスは彼女に子どもたちのパンを小犬に投げてやるのはよろしくないとおっしゃいます。けれども、彼女は「お言葉どおりです。でも小犬でもパンくずはいただきます」と応答したのでした。主イエスはそこに彼女の信仰をごらんになり、とても喜んでくださいました。彼女はたとい、パンくずほどの恵みでも娘は悪霊から解放されると信じていたのです。
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マタイ 15章29〜31節 2018年11月26日 |
群衆は、おしが物を言い、不具者が直り、足なえが歩き、盲人が見えるようになったのを見て驚き、そしてイスラエルの神をほめたたえた。(31) 主イエスは再びガリラヤ湖の近くに来られました。そしてガリラヤ湖の近くの山(実際には私たちの感覚で言うと「丘」?)に登ってそこに座られました。大勢の人たちがイエスさまが来られたことを聞いて、そこに集まってきました。そしてイエスさまのところに足、手、目、口・・・いろいろな障害や不自由さ、病を抱えている人たちを連れてきました。主イエスがそのような弱さを抱えている人たちを受け入れて下さること、また主イエスがどんな病でも癒すことができるということを聞いていたからです。そして、主イエスはそれらの人々を皆、いやしてくださいました。口がきけなかった人がものを言い、手や足が不自由だった人がいやされ、目が見えなかった人々が見えるようになりました。それはまさに旧約聖書の中にメシヤが来られるときに起こることとして記されていたしるしでした。人々は心から神をほめたたえました。主イエスは私たちがどんなものであっても救いを与えることができるのです。
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マタイ 15章32〜39節 2018年11月27日 |
イエスは・・・言われた、「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。(32) 十四章にあった五千人の給食の記事に対して、四千人の給食と呼ばれる奇跡です。主イエスの周りに集まっていた人々は、主イエスの語られる恵みの言葉を聞こうとして主イエスから離れませんでした。食べることも忘れてしまうほどです。主イエスはそんな群衆を「かわいそうだ」とおっしゃいました。主は私たちの肉体の必要をも知り、心配してくださる方です。今度はパンが七つと小さい魚が少しでした。しかし、この時も主はそれを感謝して弟子たちに手渡し、群衆に分け与え、そこにいた一同が満腹したのでした。そこにはお腹を減らしている人はもはや一人もいませんでした。
五千人の給食と似た記事なので、もともとは一回の出来事だったのだろうと言う人もいます。しかし、詳細を見るときに、これらは別の出来事とみた方が自然です。主は何度も私たちに繰り返し恵みを与え、私たちを教えてくださる方です。私たちはとても忘れやすいからです。
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