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Uコリント 12章1〜10節     2014年2月5日

ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。(9) 

 十四年前に第三の天にまで引き上げられた人がいる・・・パウロはそういう人については誇るが、自分については弱さだけだと言います。「第三の天」という言葉で何を意味しているのかは分かりません。しかし、何らかのとてもすばらしい霊的な経験だったのでしょう。そして、注解者たちは、このような書き方をしながらも、パウロは他の誰かではなく、自分自身の経験について語っているのだろうと言います。しかし、パウロは決して、自分の霊的な経験について、まるで自分自身のお手柄であるかのように誇ることはしません。
 かえって、彼は自分の弱さをさらけだすようにして、弱さを誇ると言います。パウロの弱さ、肉体のとげと言われているのは、目が悪かったのではないかとも言います。彼は癒しを、さらなる恵みを求めて祈りましたが、神はそんな彼に、「わたしの恵みはあなたに十分だ」とおっしゃり、また、弱さが決して恵みがないことを意味するのではなく、かえってそこに神さまの力があらわされるのだと言われたのでした。

Uコリント 12章11〜13節     2014年2月6日

いったい、あなたがたが他の教会よりも劣っている点は何か。ただ、このわたしがあなたがたに負担をかけなかったことだけではないか。この不義は、どうか、ゆるしてもらいたい。(13)  

 コリント教会に集う人たちの中には、パウロの使徒性に問題を挟み、パウロが神に召された使徒であるなら証拠を見せるべきだとうそぶく人々もいたようです。しかし、パウロは言います。本来、コリント教会の人々こそが、パウロが間違いもなく使徒であることを証ししてくれるべきだ。実際、パウロはコリントの町で比較的長い期間にわたって宣教を続け、多くのしるしと奇跡と力あるわざとを行ってきたからです。
 ただ、パウロはコリント教会に対して、申し分けないという気持ちでもいます。コリント教会のことを思い、その状況に対して配慮するあまり、コリント教会に対して経済的な負担をかけなかったということでした。パウロのコリント宣教は、マケドニヤ地方の教会の献金とパウロ自身のアルバイトでまかなわれていました。本来、教会が働き人の生活や宣教の働きに関する経済的な責任を負うのは、教会にとって、そこで信仰を守るお互いにとってとても大きな祝福なのです。

Uコリント 12章14〜18節     2014年2月7日

わたしたちは、みな同じ心で歩いたではないか。同じ足並みで歩いたではないか。(18)  

 パウロはこれから行こうとしているコリント訪問は三度目だと言っています。一度目は第二次伝道旅行における長期の滞在、二度目は「悲しみの訪問」と言われる短期間の訪問(二1)、そして今度が三度目です。
 パウロはお金のことを、とても注意深く扱っていました。そうでないと、パウロは献金を集めて私腹を肥やしている・・・というような言い方をする人たちが出てくるかもしれません。パウロはコリントで、エルサレムの聖徒たちへの献金を集めようとしています。しかし、彼は、そこで集まった献金を自分のために使うことはしなかったのです。
 パウロに様々な悪口を言い、パウロに対する信頼を失っているキリスト者たちに、パウロは「わたしたちはみな同じ心で、同じ足並みで、歩いていたエでゃないか」と呼びかけます。心にずれが生じ、足並みがズレてしまうのは本当に悲しいことです。教会のお互いが同じ心、同じ足並みで主の御前に歩んでいくことができることを願っています。

Uコリント 12章19〜21節     2014年2月8日

わたしたちは、神のみまえでキリストにあって語っているのである。愛する者たちよ。これらすべてのことは、あなたがたの徳を高めるためなのである。(19)  

 パウロに対して悪口を言い、またパウロの教えてきたことを否定して、異なる福音を持ち込もうとする人たちがいる中で、パウロは決して言い訳をしたり、弁明をしたりしているのではありません。パウロはコリントの人たちを真実な愛をもって愛し、またコリントのキリスト者たちの徳が高められることを願って行動していました。パウロはどこまでも神の御前に歩んでいました。
 ただ同時に、パウロはコリントの人々のことを、なお心配している・・・パウロは正直にそのことを語ります。確かにテトスからうれしいニュースを受け取り、大きな慰めを与えられている。けれども、なおコリント教会の人々が様々な汚れや争いの中にとどまり、悔い改めていなかったら・・・パウロはこのことを書くことによって、コリント教会の人々に念を押しています。パウロは自分が着いてから悔い改めることを願っているのではありません。悔い改めが必要なら、今、悔い改めて神に近づくことを願っているのです。



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