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Uコリント 2章1〜4節 2014年1月7日 |
わたしは大きな患難と心の憂いの中から、多くの涙をもってあなたがたに書きおくった。それは、・・・あなたがたに対してあふれるばかりにいだいているわたしの愛を、知ってもらうためであった。(4) 1節でパウロが「再び悲しみをもって行くことはすまい、と決心した」とあるのは、パウロが悲しみをもって訪問したことがあったからです(「悲しみの訪問)」。しかし、その訪問は、コリントの人々に深い悔い改めを引き起こすことはありませんでした。そこでパウロは、多くの涙をもっていわゆる「悲しみの手紙」を書き送り(4)、その手紙をテトスに託したのでした。
パウロは悲しみをもってその手紙を書き送りました。その手紙は大変厳しい手紙で、コリントの人々に深い悲しみをもたらすものであることもパウロは知っていました。しかし、パウロは、その厳しい手紙がコリント教会の人々に対するあふれるばかりの愛から出たものであることも、知ってほしいと願っていました。愛するということは単にその相手に調子を合わせ、耳障りの良いことだけを語るということでありません。愛するゆえに、涙を流しながら正直に語らなければならないこともあるのです。
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Uコリント 2章5〜11節 2014年1月8日 |
あなたがたはむしろ彼をゆるし、また慰めてやるべきである。・・・わたしは、彼に対して愛を示すように、あなたがたに勧める。(7〜8) パウロが問題にした様々な事柄について、問題を抱えている人々は開き直るばかりで真面目に向き合うことをせず、かえって指導者としてのパウロの権威に疑問を呈し、逆ギレするというような状況がしばらく続きます。しかし、コリント教会が教会全体としてこの問題に向き合うことによって、ついに状況が動いていきます。
パウロの語るとおり、罪を犯し続けている人たちに対して教会が向き合って行くことによって、今まで開き直ってきた人たちが自分の罪を認めざるを得なくなっていったのです。それは大きな神の憐れみでもありました。自分の罪を認めるのは決してやさしいことではありません。しかし、そのことがその人の永遠の祝福につながっていきます。
パウロはその罪を断罪し、切り捨てるのではなく、悔い改め、悲しみの中にあるその人を受け入れ、ゆるし、愛するようにと勧めるのでした。
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Uコリント 2章12〜17節 2014年1月9日 |
しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。(14) パウロは「悲しみの手紙」をテトスに託してコリントに送り出してから、ずっとコリント教会の人々がその手紙をどのように受け止めてくれるかということが気がかりでなりませんでした。パウロはエペソでの働きを終え、トロアス、マケドニヤと旅を続けながらも、コリントの人々のことを考えていました。
しかし同時に、パウロは自分の旅路が決して、敗北感と不安の中に進められたものではなく、キリストの凱旋パレードだと言います。すでに主イエスは勝利をとってくださったからです。
そして、私たちはそのキリストの凱旋パレードに加えられて、キリストのかおりを放っています。私たちが語る言葉や生き方を通して、キリストを証ししていくのです。それは主を拒み続ける人にとってはそれは滅びを意味しています。しかし、それは、主を信じて歩む人にはいのちからいのちに至らせる香りなのです。
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