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Uコリント 7章1節 2014年1月23日 |
愛する者たちよ。わたしたちは、このような約束を与えられているのだから、肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではないか。(1) パウロは前の章の最後で、旧約聖書の約束を引用しながら、神が私たちのうちに住んでくださるのだから、私たちは汚れたものから離れることが必要だ。そして、そのように聖なるものとして歩むときに、神は私たちの父となり、私たちは神の息子・娘とされるのだ、と語りました。
それはすばらしい約束です。このようなすばらしい約束を与えられている私たちは、肉と霊との一切の汚れから自分をきよめるべきです。もちろん、「きよめ」てくださるのは神であり、神の御業です。しかし、同時に「自分をきよめる」責任は私たちに課せられています。たとえば、自分の弱さを知りながら、誘惑の多い中に身を起き続けるのはとても愚かなことです。また悔い改めて罪から離れる決断をすることは私たちの責任でもあるのです。私たちは神を畏れ、神の御前に喜ばれる歩みをしていきたいと思います。
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Uコリント 7章2〜4節 2014年1月24日 |
どうか、わたしたちに心を開いてほしい。・・・あなたがたはわたしの心のうちにいて、わたしたちと生死を共にしているのである。(2〜3) コリントの町に福音を伝えたのはパウロです。しかし、パウロがコリントの町を去り、また律法主義(主イエスを信じるだけでは救われない、真面目に律法を守ることが大事だという考え方)や二元論(「信仰は信仰、生活は生活」という考え方)、また神秘主義など、いろいろな違った福音が入り込んでくる中で、コリント教会は混乱し、また多くの罪が教会の中に入り込んできました。パウロはそのようなコリント教会に対してしっかりと向き合います。それは彼らの罪を指摘するということも含んでいました。ある意味、パウロの厳しい言葉はコリン教会の人々の怒りや反発をもかったことでしょう。しかし、パウロがそのような厳しい言葉を語ったのは、コリントの教会のことを思い、彼らを愛していたからです。そして、パウロは、コリント教会の人々がきっとパウロの呼びかけに心を開いて応えてくれると信頼して待っていたのでした。
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Uコリント 7章5〜16節 2014年1月25日 |
神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。(10) パウロはコリント教会のことを心配しながら、エペソからマケドニヤへと移動します。パウロはその間も、「悲しみの手紙」を持ってコリントを訪ねているテトスのことをずっと思っていました。コリント教会の人々が、パウロが書いた手紙を受け入れてくれることを期待して祈っていました。実際、パウロにはそこでも多くの困難があり、迫害があり、また恐れがありました。パウロは正直に自分は「うちしおれていた」とさえ言います。
けれども、そんなパウロのところにテトスがうれしい知らせを持って帰ってきたのでした。コリント教会の人々が悔い改めて、パウロに会いたがっているという知らせでした。
確かに、パウロの手紙はコリントの人々に悲しみをもたらしたことでしょう。しかし、パウロは、神のみこころに添った悲しみがあると言います。コリント教会の人々の悲しみは大きな喜びと祝福につながるものだったのです。
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