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Uコリント 5章1〜10節 2014年1月16日 |
そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。(9) パウロがこの1節で「わたしたちの住んでいるこの地上の幕屋」と言ったのは、私たちの肉体のことです。わたしたちの体は弱さの中に苦しむことがあります。しかし私たちは、やがて、神が備えてくださる新しいからだを着ることになります。私たちの抱えている死ぬべきものはやがていのちにのまれてしまうのです。そのことを保証するために、主は私たちに御霊を与えてくださいました。ですから私たちは目に見えるものに振り回されていきるのではなく、信仰によって生きるのです。
パウロはこのような生き方を「いつも心強い」と言います。それは私たちのカラ元気によるものではなく、神が確証してくださっていることです。
そのような希望をもって生きる私たちは、この肉体を負いながらの、主をお喜ばせすることを唯一の、最大の願いとして生きていきます。私たちはやがてこのお方の前に立つからです。
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Uコリント 5章11〜15節 2014年1月17日 |
キリストの愛がわたしたちに強く迫っている・・・彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。(14〜15) パウロは時に「気が狂っている」と言われました。確かに、パウロが主を信じ、命がけで福音を伝えて行くということはある人々にはとても理解できないことだったことでしょう。パウロは地位も名誉もお金もすべてを捨てました。そしてユダヤ人社会においても、またローマ人社会においても、主イエスの十字架と復活を宣べ伝えることによって気が狂っているとされたのでした。
しかし、パウロは神のためであればどんな悪口を言われても何とも思いませんでした。彼はまさにキリストのために生きていたのです。キリストの愛がパウロに迫っていたからです。キリストの愛とは、キリストが自分のために死んでくださったということです。キリストが自分のために死んで下さったということを知った人はみな、今度は自分のためではなく、自分のために死んでくださった主イエス・キリストのために生きる者へと変えられるのです。
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Uコリント 5章16〜19節 2014年1月18日 |
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(17) どんな人であっても、キリストにあるとき、キリストを信じるときに、その人は新しく造られたものとされています。そもそも私たちはみな神によって、神に似せて造られた存在です。しかし、人間は罪のゆえに神が最初に意図しておられた姿とはずいぶんかけ離れたものに変わってしまいました。しかし、私たちが救い主にすがり、信仰によってこの主イエスにつながるときに、罪に縛られた古い私は過ぎ去り、私たちは新しくされます。っそして、そのことによって、神は私たちをご自身と和解させてくださいました。
しかし、それは単に、自分がしあわせになるためではありません。神と和解した私たちには、今度は「和解の務め」が託されました。私たちは和解の福音を携えて、人々にその福音を伝え、人々を神との和解へと導くように求められています。もうすでにキリストの十字架によって、和解のための条件はすべて全うされているからです。
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Uコリント 5章20〜21節 2014年1月19日 |
神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。(20) パウロはコリントの教会のキリスト者たちにこの手紙を書いています。罪を犯し、神から離れていたけれども、主に立ち帰ってきたその教会に対して、「神の和解」を受け入れなさいと招くのです。壊れてしまった神との関係を回復するのは私たちの努力や決心・真面目さなどではありません。神は、ご自身の方で、「和解」を準備してくださいました。
罪を犯す者は神の怒りの下に置かれています。しかし、本来私たちの上に注がれるべき、神の怒りと裁きを、神は罪を知らない、きよい神の子イエスの上に負わせられました。罪のない方が罪とされ、そのことによって、キリストにつながる私たちが義なる者とされたのです。
私たちにできること、私たちに求められていることはただひとつ、神が用意してくださった和解の契約書に自分の名前をサインし、感謝してその契約を受け入れることです。
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