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Uコリント 4章1〜6節 2014年1月13日 |
神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝き・・・(4) 私たちはよく「私は見ないでね。私を見ていたら、きっとつまづくでしょうから。イエスさまを見ていてね」と言います。ある意味で、この言葉は当たっています。人間に期待していると、私たちはやっぱり裏切られることがあるからです。私たちが人を見ないで、主を見ているということは確かに大切なことでしょう。しかし、同時に、パウロは「自分を推薦する」と言いました。それは自分自身を誇り、自慢し、宣べ伝えるということではありません。私たちは、主なるイエス・キリストを宣べ伝えます。私たちは、キリストの栄光によって変えられ続けながら、神の言葉を曲げることなく語り、その福音に生きていくことによって、キリストの栄光の福音の輝きを人々に示していくのです。
キリストはそのために、「光あれ」と私たちの心を照らし、キリストを通してあらわされた神の栄光を、私たちに明らかにし、また私たちを通して、すべての人々に明らかにしてくださるのです。私たちには何と大きなすばらしい務めが与えられていることでしょうか。
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Uコリント 4章7〜15節 2014年1月14日 |
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。(7) 私たちは「土の器」です。人間は土のちりによって造られ、死んでやがて土にかえっていきます。患難を受けて苦しみ、時に途方にくれ、迫害の中で叫び、倒されてしまうようなもの、どんなに力と知恵とに満ち、また言葉に優れていても、時に病に倒れ、確実に老い、そして死んでいきます。しかし、私たちはこの宝を土の器の中に持っているのです。主イエスのいのちがこの死すべき私たちのうちに宿っている。だから私たちは、たとい苦しみ、またこの地上においては、主イエスと同じように反対者たちによって迫害を受けて死ぬということがあったとしても、窮することはありませんし、行き詰まることはありません。見捨てられることなく、滅びることはありません。
確かに土の器である私たちはやがて壊れ、土に戻っていくことでしょう。しかし、主イエスをよみがえらせてくださった主は、私たちをもよみがえらせて、御前に立たせてくださるのです。
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Uコリント 4章16〜18節 2014年1月15日 |
だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。(16) 「このしばらくの軽い患難」とパウロは言います。しかし、実際にパウロがアジア州、特にエペソで経験した苦難は非常に厳しいものでした。それは極度の、耐えられないほどの圧迫であり、パウロに生きる望みを失わせるほどのものでした(一8〜9)。しかし、彼はその患難を、後の栄光に比べています。やがて私たちが受ける栄光は「しばらく」のものではなく「永遠」のものであり、とても「重い」ものでした(「栄光」というヘブル語には「重い」という意味があります)。その栄光の大きさに比べたら、今の患難は「しばらくの軽い」ものにしかすぎないのです。
見えるものに目を止めていると、私たちの歩みは落胆に満ちているように見えます。外を見ても、また自分自身を見てもそうです。しかし、見えないものに目を止めていくときに、私たちは日ごとに私たちを新しくし、永遠の栄光にあずからせてくださる神の恵みに触れることができるのです。
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