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ヤコブ 2章1〜13節 2014年9月17日 |
わたしの兄弟たちよ。わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない。(1)
私たちは人の外見から得る情報を元にして、人を評価し、理解することが多いものです。確かに、その人の内側が服装やしぐさ。話し方など外側に現れてくるのも事実です。しかし、同時に、私たちは人の外見だけで人を評価することのないように気をつけたいと思います。
初代教会の中でも同じクリスチャンでも生活レベルには差があり、裕福な人も貧しい人もいました。そして、悲しいことですが、単に外側の社会だけでなく教会の中でも、裕福な人が丁重に扱われ、貧しい人々がはずかしめられるということがあったのでしょう。
昔から人々は、裕福な人は神に愛され、多くの祝福を与えられているのだと思ってきました。しかし、ヤコブは教会の中で人を差別することを堅く戒めます。そして、神は貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、御国の相続者とされた、というのです。
人を差別するのは罪であり、人を差別する人は神の戒めを破っています。外見で人を裁くのではなく、誰に対してもあわれみと愛に生きる者でありたいと思います。
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ヤコブ 2章14〜26節 2014年9月18日 |
それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。(18)
私たちは行いによって救われるのではありません。しかし、同時に主イエスを信じるということは必ず、それにふさわしい生活を伴うものです。神を信じるとは、単に神の存在を信じるとか、キリスト教の諸教理を受け入れると言うことではありません。信仰とは、語られた福音を受け入れて主に信頼し、主に従って生きることでもあるのです。ヤコブは、神がいるかどうかといような議論だったら、悪霊だってそのことは知っている、と言います。悪魔はある意味、神の存在を、決して否定し得ない事として知っていて、震えおののいています。しかし、悪魔は神に帰依し、神に御心に沿って歩もうとはしません。
ヤコブは、信仰の父と言われたアブラハムの実例を上げています。パウロはこのアブラハムを、行いによってではなく信仰によって義とされるという信仰義認の観点から取り上げていますが、ヤコブはアブラハムが信仰によって生きたという観点から取り上げています。信仰はまさに見えるものでなければならないのです。
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