バックナンバー
|
ヤコブ 5章1〜6節 2014年9月24日 |
あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。(3) 富自身が汚れているのでも、罪なのでもありません。ヤコブがここで警告しているのは、富を神様の祝福のしるし、神が自分を喜んでおられるしるしとしてとらえて、罪を犯しながらも平気でいる人々のことでした。正直に商売をして正当な利益を上げている人々がいる反面、収穫の刈り入れのために人々を雇ってこき使いながら、正当な報酬を与えることを惜しみ、不当な利益を上げて、自分だけが快楽をむさぼるというような人々もいたのです。万軍の主の耳には全部届いている、主は知っておられると、ヤコブは言います。
私たちが地上に宝を蓄えることにばかり苦心していると、この地上のことばかり考えるようになります。富むことは必ずしも罪ではありませんし、生活の計画を立てて貯金をするのも大事なことでしょう。しかし、地上に富を蓄えることばかりに執心していると、神様が見えなくなります。主イエスも、神と富とに兼ね仕えることはできないとおっしゃいました。再臨の主を待ち望む者として天に心を向けて歩みたいと思います。
|
ヤコブ 5章7〜11節 2014年9月25日 |
あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。(8) 私たちの地上の歩みにおいては様々な苦難の中を通ります。けれども、私たちは耐え忍んで信仰の歩みを続けていきたいと思います主の来臨の時が近づいているからです。ヤコブは農夫のたとえを上げています。農夫は一生懸命汗水流して仕事をしますが、実際に彼が報われるのはずっとのちのことです。前の雨とは種まきの前に降る秋の雨、後の雨とは収穫の前の雨のことです。この二回の雨の季節を経て、農夫たちは収穫を迎えます。確かに、必ずしも雨の季節というのは心地よいものではないかもしれません。しかし、雨の季節は後の収穫を約束するものであり、また季節の移り変わりを示すサインでもありました。
またヤコブはヨブの実例を上げます。ヨブは義人であったにもかかわらず非常に厳しい試練を経験します。しかし、やがて最後には、ヨブは試練を通して神をより深く知るようになり、二倍の祝福をいただいたのでした。主の慈愛とあわれみに目を止め、主の再臨を待ち望むお互いでありたいと思います。
|
ヤコブ 5章12節 2014年9月26日 |
むしろ、「しかり」を「しかり」とし、「否」を「否」としなさい。そうしないと、あなたがたは、さばきを受けることになる。(12)
今日の聖書の箇所では一切誓うなと命じられています。「〇〇にかけて誓う」というような軽々しい発言をしたり、ものごとを誇張して発言する人たちがいたのでしょう。私たちはどれだけ本気で誓っても、果たすことができないかもしれません。自分の健康や置かれている環境が変わってしまうかもしれませんし、また様々な特殊な事情が起こるかもしれません。私たちは、主が許してくださらなければ何もすることはできないのです。そのような限界をもった弱い存在なのです。
語ることは「はい」か「いいえ」かどちらかにすべきです。話を誇張したり、嘘をついたりしてはいけません。ありもしないことをさもあるかのように吹聴したり、自分を必要以上に誇示する必要もありません。ただ「はい」と言ったことはそのとおりにし、「いいえ」と言ったことはしないことです。そうでないと私たちは信用を失い、また神の御名までがはずかしめられることになってしまいます。
|
ヤコブ 5章13〜18節 2014年9月27日 |
あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。(13) ヤコブは苦しみの中にある人には私たちの祈りを聞いて慰めを与え、また救いを与えることのおできになる神に祈り求めるようにと勧めます。もちろん、主は私たちの置かれている状況をご存じですし、私たちの苦しみを理解することのできるお方です。だからこそ、私たちは苦しみの中にあって苦しみだけを見つめたり、現実の中にある自分だけを見つめたりするのではなく、そんな中でも主を見つめるのです。
信仰の友や先輩に祈ってもらうのもとても大事なことです。また、もし祈りの時に罪を示されたら悔い改めることです。特に悔い改めの祈りをささげるときに、そばにいてくれる友を持っている人はしあわせです。
また病の時にも癒し主である主に信頼して祈りましょう。それはどんな病でも自動的に取り除かれるということではありません。しかし、癒す力があるのはこの主だけなのです。そしてまた感謝と賛美を主にささげましょう。
|
ヤコブ 5章19〜20節 2014年9月28日 |
罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである。(20)
私たちは主を信じてからも罪を犯すことがあります。そのことに気づいたときには、すぐに悔い改めて主に立ち帰ることです。ただ悲しいことですが、一度主を信じながらも、道を踏み外し主から遠く離れていく人たちもまたいます。
そのような時に、その人の罪を徹底的に批判し、切り捨てるのではなく、そのような人を迷いの道から引き戻す人を主は求めておられます。主はその人を祝福してくださるでしょう。主はひとりの人も滅びることを望んでおられません。一人一人が主イエスがその命を捨てて愛し、あがなってくださった存在なのです。そのような意味でも、主は、破れ口に立ってとりなしつつ、その人に近づく人、愛をもって真理を語り、悔い改めを勧めてるような信仰の友を求めておられるのです。「罪をおおう」とは罪を隠すとか、うやむやにするということではありません。その人が悔い改めに至ることを望み、愛をもってそばに立ち続けることなのです。
|
|
|