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テトス 3章1〜11節 2014年7月11日 |
この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。(6) 私たちはかつては「無分別で、不従順な、迷っていた者」「様々の情欲と快楽の奴隷」「悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互いに憎み合っていた」、そのような者たちでした。しかし、救い主が愛といつくしみによってご自身を示してくださったとき、私たちの真面目さや熱心さ、正しさによってではなく、神のあわれみと聖霊の力によって私たちは救われたのです。そして、救われた私たちは御国をつぐ者として、つとめて良いわざに励むことを求められています。
主イエスの十字架の御業を私たちに当てはめ、私たちを新しくするのは聖霊の御業です。聖霊は主イエスがこの世の働きを終えて、父なる神のもとに帰られた後に、求める弟子たちの上に注がれました。最初のペンテコステの時だけではありません。この聖霊は、主イエスを通して、私たちの上にも豊かに注がれたのです。私たちは注がれている聖霊に信頼し、このお方にすがりながら、主に救われたものとして歩みをしていくのです。
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テトス 3章12〜15節 2014年7月12日 |
わたしたちの仲間も、さし迫った必要に備えて、努めて良いわざを励み、実を結ばぬ者とならないように、心がけるべきである。 (14) パウロはアルテマスかテキコをテトスの元に送り、テトスの働きをさらに励まそうとしています。そしてテトス自身には、ニコポリにいる自分のもとに急いで来るようにと言うのでした。パウロはテトスに会って、必要な指示を直接与えたいと願っていたのでしょう。手紙を送ったり受け取ったりするのも、今に比べたらずっと貴重なものだったことでしょう。しかし、それでもやはり、会って、顔と顔を合わせて話を聞いたり、語ったりということの代わりにはならないのです。
パウロは、テトスに努めて良いわざに励み、実を結ぶようにと励まし。また勧めます。もちろん、私たちはキリストにつながっているときに、自然と良い実を結んでいくものです。しかし、同時に、実を結んでも結ばなくても無頓着であったり、信仰とはまるでそぐわないような実しか結ばないということのないように「心がける」ことも大切です。自身を点検して整えられ、また実を結んでいくことができるように、祈り求めることができるからです。
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