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エペソ 4章1〜6節 2014年3月23日 |
主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。(5〜6)
パウロはこれまで、主イエスが十字架において、異邦人とユダヤ人の間にあった壁を取り除いて、二つのものをひとつにしてくださったと言いました。これはまさにユダヤ人が全く想像していなかったこと、異邦人たちが全く期待していなかったことでした。神はユダヤ人と異邦人を一つにして、共に神の祝福にあずからせてくださいました。
しかし、実際には、同じ国。同じ民族であったとしても一つになるのはとても難しいものです。けれども、私たちは一つにされています。それは同じ主を信じ、同じ主につながるバプテスマを受け、同じ望みに生きる者とされ、同じ主のからだなる教会につながっているからです。ただ同時に、「一つ」ということが具体化されていくためには、お互いに謙虚であることや愛をもって受け入れ合い、忍び合い、一人一人が自分に与えられた使命に忠実に生きるということが求められています。
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エペソ 4章7〜16節 2014年3月24日 |
わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。(13) 一つということはみんなが同じことをするということではありません。キリストは私たちひとりひとりに恵みによって賜物を与え、一人一人それぞれに担うべき働きと役割を与えておられます。賜物には優劣はありませんし、また働きにも優劣はありおません。大切なことは一人一人が与えられた賜物を用い、託されている働きに忠実であることです。
神が私たちに賜物を与えて下さっているのには目的があります。それは私たちがバラバラではなく、信仰の一致と知識の一致に到達し、キリストの徳の高さに至るため、また共にキリストの体を建て上げ、お互いがお互いを支えながら、愛の内に成長していくためです。
大切な事は、間違った教えに振り回されることなく真理に生きるということであり、自らの賜物を自分自身のために用いるのではなく、キリストのからだというつながりの中で、お互いのために生かしていくということです。
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エペソ 4章17〜24節 2014年3月25日 |
あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。 (22〜24) パウロは居住まいを正すように、ここで「主にあって厳かに命じる」と書いて、エペソ教会の人たちに警告を発します。パウロは彼らが主イエスを知る前、どのような歩みをしていたか知っていました。またキリスト者となった彼らがどのような社会の中に生きているのかも知っています。「無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている」、そんな人々の中で様々な誘惑や、忍び込む影響の中にさらされながら信仰を守らないといけない。そこには当然大きな戦いがあったことでしょう。
パウロは、彼に聞き、彼にあって教えられた通りに生きるようにと勧めます。それは古い生き方を脱ぎ捨てて、新しい人を着、新しい生き方をするということです。主イエスを信じたのに、生き方が全く変わらないのはとこかおかしいでしょう。しかしそれは単に上衣を替えるというようなことではありません。心の深みまで新しくされることがまず大切なのです。
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エペソ 4章25〜32節 2014年3月26日 |
神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。(30) 聖霊は、決して何かの能力や影響力のようなものではありません。聖霊は人格をもった神ご自身です。父なる神、子なる神、聖霊なる神は、三つの人格をもったひとりの神なのです(三位一体)。聖霊は、私たちを主イエスへの信仰へと導き、信じる私たちのうちに内住してくださいます。聖霊は語り、導き、止め、喜び、悲しまれます。
聖霊は何を悲しまれるのでしょうか。聖霊は、私たちが偽りを抱えて歩んでいくことを悲しまれます。また罪に留まり続けることを悲しまれます。悪い言葉を口にすることを悲しまれます。あわれみの心を失うことを悲しまれるのです。
私たちは。聖霊の光の下に身を置いて、心して、悪魔に足をすくわれないように自分の歩みを点検していただきたいと思います。私たちは主に贖われ、主のものとされているからです。やがて栄光の姿に変えられて、主の御前に立たせていただくという望みに生きているからです。
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