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エペソ 2章1〜7節 2014年3月15日 |
しあわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし・・・共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。(4〜6)
私たちはかつては罪の中に死んでいました。悪魔に従って日を過ごしていました。肉の欲に支配され、生まれながらの怒りの子でした。
しかし、神さまはそんな私たちを憐れんでくださって、その大きな愛をもって愛してくださいました。そして、キリストの死によって私たちをあがない、そのよみがえりによって、罪の中に死んでいた私たちをキリストと共に生かしてくださったのです。それだけでなく、パウロは、神は私たちを、天に上げられたキリスト共に天上で座につかせてくださった、と言います。もちろん、私たちはまだ地上に生きています。しかし、キリストが 天上で座に着かれたことによって、私たちもまたすでに、そこにいる・・・それは単に将来の希望であるだけでなく、キリストにあってすでに現実のものとなっています。そして、それは私たちが喜ぶためだけではなく、神の大きな恵みを次の代に手渡していくためなのです。
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エペソ 2章8〜10節 2014年3月16日 |
あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。(8)
私たちに与えられているこの大きな救いは決して私たちの業によって勝ち取ったものではありません。私たちの良い業に対する報いとして与えられたものでもありません。それは神の賜物、プレゼントとして、信じる私たちに恵みによって与えられたものなのです。「恵み」とは受け取る資格のない者に無代価で与えられるものです。ですから、誰も、自分が与えられた救いを誇ることはできません。
私たちは行いによって救われるのではありません。けれども同時に、では何をしていてもいいのかというとそうではありません。行いは救いの条件ではありませんが、救われたお互いはよい行いをして日々を過ごすようにと期待されています。けれども、それは決して困難なことではありません。私たちはそのように造られた神の作品だからです。神は私たちがきよく正しい歩みができるようにあらかじめ準備してくださっているのです。
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エペソ 2章11〜19節 2014年3月17日 |
十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。(16)
この手紙を読んだ人々の多くは異邦人でした。主イエスに出会うまでは、神も、聖書も、聖書の約束も知りませんでした。希望もなく神もなく、罪の中を歩んでいました。
けれども、イエス・キリストの血によって、その神から遠かったものが、神に近いものとされたのです。たとい異邦人で、割礼を受けておらず、また律法を知らなかったとしても、神の恵みと祝福にあずかることができるようにされたのです。
それだけではありません。ここでパウロが「二つのもの」と語っているのは、イスラエル人と異邦人のことです。イスラエル人たちは異邦人を見下げ、自分たちが律法をいただき、割礼を受けていることを誇っていました。しかし、このキリストによって敵意という隔ての中垣が、十字架につけられ、滅ぼされ、取り除かれ、この一つの御霊によって、共に神に近づく神の家族、聖徒たちにつながるものとされたのです。
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エペソ 2章20〜22節 2014年3月18日 |
このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。(21〜22)
神殿は主を礼拝の場、祈りの場、主が臨在され、その栄光を顕される場でした。しかし実際には、イスラエルの民は聖なる場所であるべき神殿をしばしば汚し、神の怒りを招き、そのことによって、神殿は破壊され、何度か再建・改築などもされましたが、今日、その姿を消しています。
しかし、ここでパウロはいわゆる建造物としての神殿ではなく、霊なる神の住まいとしての、目に見えない主の宮、教会について語っています。使徒たちや預言者たちがその土台、主イエスがその隅のかした石です。この石は入れ替えることはできません。それをすると教会が教会でなくなってしまいます。
そして異邦人もユダヤ人もみなが、その霊なる建物の材料として組み合わされ、積まれています。いらない人など誰もいません。誰かがいないと穴が空いてしまいます。固く結びあわされて、主の住まわれる場として立て上げられていくのです。
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